『レジェンド&バタフライ』で絶望の淵に立つ。
何かのために何かをするのって、嫌だ。ただ、車を走らせるならめちゃくちゃ楽しい。別に猛スピードで走らなくていい。猛スピードで走らなければなんて意味があるとそれも嫌。走りたいときにアクセルふかして、止まりたいときに止まる。渋滞してきたら車を脇道の停めて、「また明日続きを走ろう」くらいの気持ちのドライブは本当に楽しい。
そういえば、昔、タモリが「子どもの国語の先生が、作者は何を言いたかったのか答えなさい、と言われて書いてあることが全てじゃないかと思ったね」とインタビューで答えていた。そりゃそうだ。でも、いまだに学校という所は「これにはどんな意味があるのか」ということを考えさせることがえらいと思っている。小説家がどんな気持ちで書いたかなんてどうでもいい。そこにある小説が面白いかどうかしかない。だいたい、「こんなことを伝えたくて」なんて言う小説家が書いた小説が面白かったためしがない。
小説をひとつ読んで、「ぜんぜん面白いと思えなかった」という答えもありだし、「まったく意味がわからなかった」という感想もある。だけど、今の子どもたちは「この小説の主人公が世の中を恨みながら、でも前向きに生きていこうとする姿に感動しました」という吐き気がするような欺瞞に満ちた答えが得意だし、そういう答えられるようにしっかりと教育されている。答えられないと、「自分の考えを持つように」と叱られる。こんなのファシズムだぜ。本当に気持ちが悪い。
意味など捨てさり、ただただ音の響きが素晴らしいという小説があってもいいし、それこそジョン・ケージのように演奏しない楽譜があってもいい。古くさい先生たちの期待に応えようと必死になった若い衆から、新しいものなんて生まれない。
映画『レジェンド&バタフライ』を見る。織田信長と濃姫の関係を主軸に置いた東映映画70周年記念大作だ。史実に忠実なわけでもなく、あの時代の焼け付くような愛を描いたわけでもなく、戦闘シーンが面白わけでもなく、ただただキムタクを眺め続けるという3時間弱。もう、日本映画のメジャースタジオからは絶望に満ちた作品しか生まれないのかもしれない。
偉い奴らなんて信用したら、共倒れだ。それを知っているからこそ、若い衆はなるべく大人と接点を持たずに世の中を渡っていこうとする。正しい選択だと思う。でも、彼らは大人のずるさをしっかりとは把握していない。大人は嘘を吐く。もちろん、若い衆だって嘘を吐く。嘘を吐かないで生きていけるほど、優しい環境なんてもうどこにもない。だからみんなが嘘の付き合いをして、自分も相手も疑心暗鬼にしてしまう。こうなったら、誰かと手を組んでものを創り出すなんてことはできない。
結局、出来る奴は一人で何かを作り始める。これまで、手を組んで作っていたものを一人で作らなければいけない。つまり、これまでよりも才能の幅が広くないと世の中に出ていけない状況になっている。自分で作り、自分でパッケージして、自分で売り出す。昔は「アイツ、才能あるけど、性格が最悪なんだよな」という映画監督はたくさんいた。けれど、いまは才能があって良いヤツでないと世の中に出られない。逆に才能が中途半端でも良いヤツなら世の中に出られるチャンスがある。
みんなの多様性を認めて持続可能な世の中にしようとすると、もしかしたら僕らは「おもしろいもの」に出会えるチャンスを諦めなきゃいけないんじゃないのか、という気がしてきた。ああ、うすら寒い。
植松さんのウェブサイトはこちらです。お問合せやご依頼は下記からどうぞ。
植松眞人事務所
植松眞人(うえまつまさと): 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。現在はコピーライターと大阪ビジュアルアーツ専門学校の講師をしています。東京と大阪を行ったり来たりする生活を楽しんでいます。