年をとることの意外なほどの「やわらかさ」「傷つきやすさ」を言葉に。
先週、わたし個人のブログに
「うっすら、うっすらと年齢のことを考えている。
若くなくなった自分のことを心のどこかで
かすかに、しかし明確に意識しつづけています。」
と書いたのですが、
これは、実際に自分が若くなくなってみて
初めてわかった大発見ともいえることでした。
もちろん、いつも深刻にそのことを考えているわけではないのですが、
胸の底のほうにうっすらと一枚の布を引いたように
つねに、そこにある「憂い」。
そして、それが自分に限ったことでなく
多くの人たちに共通した「憂い」であることも
大きな発見でした。
だからこそ人々は、さまざまな形で
その「憂い」を晴らそうとしたり、
乗り越えようとしたり、ないことにしてはしゃいだり、
憂いそのもののなかに沈みこんだり、
日常の些末なことだけを見つめるようにしたりするのだ、
とわかってきたのです。
わたし同様、「おばちゃん」と呼ばれる世代の人々が
何人か集まって食事や日帰り旅行やショッピングに出かけるおなじみの光景。
あっけらかんと楽しそうな表情のなかに
「いま、こうして、若くなくなって
女同士で遊ぶようになった自分」の
満たされている部分と、満たされていない部分を
静かにじっと見つめているような
「心のなかの冷えた部分」が潜んでいることも、
感じとれるようになりました。
中年以上の「熱狂」や「夢中」には、
そうしようという決意や
そうでありたいという願望が
多少なりとも存在するとわかったのです。
わたしは、先週、52歳になりましたが、
その意味では、見晴らしのいい場所に来たんだなあと思います。
自分より若いひとたち、
自分と同世代の人たち、
自分より年長の人たち。
それぞれの喜びと憂いを
自分の経験から理解することができたり、
慮ることができたり、
想像したりすることができる。
ちょうど、そういうことのできる年なんじゃないでしょうか。
自分の「憂い」をよりどころに
他の人の「憂い」も想像し、
年をとることの意外なほどの「やわらかさ」「傷つきやすさ」を
わたしなりに言葉にしていきたいと思います。
この場所も、「やわらかく」なれる場所、
いろいろ「やわらかく」する場所にしたいです。
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