50代、男のメガネは近視と乱視とお手元用~ 秋の深爪
秋の深爪
「爪が伸びている。親指が特に」と、歌ったのは井上陽水だったか。
あの頃の井上陽水の本当に救いのないくらいに暗い歌が大好きだ。
爪が伸びている、と気付くのはいつもキーボードを叩くときだ。いつもよりもカチャカチャという音が少し高くなり、指先に違和感が走る。そうなって初めて、「ああ爪が伸びている」と気付く。
となると、手元に爪切りがない場合が多い。仕事中のデスク周りや、出先のコーヒーショップでキーボードを叩くとき、たいがい爪切りはない。仕方がないので、いつもハサミで爪を切る。普通に紙を切るハサミで、伸びているところだけをうまく切る。二十代からそうしているので、あまり失敗しない。かなりうまく切ることができる。
ただし、うまく切れるという過信があるからなのか、ときどき深爪する。この間も、ちょっと気持ちが入ってしまい、じっくり慎重にハサミで爪を切っていた。指先の弧に沿って、見事なくらいにカーブさせながら爪を切ることができた。しかし、そこで油断が生じた。最後の最後、ハサミの刃渡りが足りずに、ほんのゼロコンマ何ミリかが切れなかった。必然的に、切られた爪は、指先から離れずにプラプラとぶら下がった。
いつもなら、もう一度切り直すのだが、その日の僕は疲れていたのだろう。なんとなく、乱暴にそのぶら下がっている爪を片方の指先でつまんで引っ張ってしまったのだった。すると、鈍い痛みが走り、左手小指の爪の一番端に小さく血が滲んでいる。あの時に、もう一度ハサミをもって、ちゃんと切っていれば、こんなことにならなかったのに。少し手を抜いて、ぶら下がった爪を引っ張ってしまっただけで、それからの数日鈍い痛みと付き合わなければならないのかと思うと情けない。
ただ、こんな深爪になる頻度がだんだんと減っていることに気がついた。以前はしょっちゅう、「あ、また深爪だ」と思っていたような気がするのに、最近は忘れた頃にやってくる、という感じだ。なぜだろうと思っていたのだが、ふと思い至った理由は意外と簡単だった。以前よりも爪を切る頻度が減ったのだ。爪が伸びないわけじゃない。ただ、キーボードにそれがあたり、「不快だ」と思う頻度が確実に減っている。多少の違和感は乗り越えて「また、あとで爪を切らなきゃ」と放置できることが多くなっているのが理由だ。
そう言えば、以前は仕事上で何か気になると、ちゃんと聞いておかなければ気がすまない、ということが多かったのだけれど、最近は、「まあ、いいや」と思うことが増えてきた。それがベテランの余裕なのか、仕事への集中力の欠如なのか、その根本がちょっと気になるところではあるのだけれど。
植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、オフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京神楽坂で暮らしてます。
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