<第8回>「人生フルーツ」、テレビで見ました。まぶしかった。
こんばんは。「夫婦というレッスン」というお題、決して得意分野(?)ではないけれど考えよう、考えてみたいと思ったのは、やっぱりカリーナさんのプレゼン力が高いからでした。ああ、そういうことなら私も何か、と思った。
既存の夫婦の話、雑誌の特集なんかでいろいろ読んでもあんまりピンと来ないしな、とか。そして、はらぷのメール がたいへん興味深かったのも引き金になりました。自分と近い、と思った。なんでもそうなのかもしれませんが、夫婦について話すことって、自分がどの幅で暮らしてるかカミングアウトすることだなあとも思いました。
私、狭っ!
で、やっぱり「人生フルーツ」が気になって、テレビ版を動画で見ました。1時間ちょっとヴァージョンのもの。これは、映画版とはどういう風に違うのでしょうか。映画版はテレビ版にエピソードを足したものなのか、はたまた、編集がまったく違っているのか。とにかく、テレビ版のみの視聴ですが、私にはとてもまぶしかったです。
すごいな、衿が正されるな、ガツンとくるな、グッともくるな、愛おしいな、ヘンだな、もの好きだな、タフだな、哀しいな…それらがブレンドされた状態で前のめりに見ました。そして、遠くない自分の老後に少なからず影響を受けそうな気がしました。でも、見終わった今は、二人のあの世界がハレーションを起こして、一気に遠ざかったみたいな感じもしています。
ハレーションって、自分にしっくりする明度との違い、というのに近いのかもしれません。要するに、まぶしかった。
前回のメールと重複しますが、そのまぶしさは、自分の夫婦に関する「狭さ」に由来していると思います。自分の許容明度(枠)には収まらない。なので、ハレーションを起こすし、心にヒットはしても、積極的に自分に取り入れようとは思わない。
もちろん、知らず知らずに影響を受けたりはするのでしょうけど。あと、ピンポイント的に心情をなぞったり、とかもするんだろうな。でも、理想や目標にはしないな。できない。できないからする気にもならない。書いてて情けないですけど。そこに努力はないのか自分、と。
あきらさん、そしてあの森達也氏も常々言うように、ドキュメンタリーは作り手が伝えたいように伝えるものだし、つばた夫妻の美しさや揺るぎなさ、お茶目さとかユーモア、ちょっとした気色悪さにも、やはりそれを感じました。
あの、亡くなった夫を撫で摩る印象的なシーンを見て、英子さんは劇場型だなあと思った私は、心が汚れすぎているのかもしれません。いや、カメラが回ったからああした、とは思ってません。
第三者がいることより、自分の心の高まりがさせる行動を優先した心のありようが劇場(激情ではなく)型だなあと。
そして、はらぷが書いたことについて。(→次回、続きます。)