まさみの帰る家
職場近くの、夫婦でやっている小さなパン屋に、ときどきお昼を買いに行く。
そのパン屋は、バス通りから一本ひっこんだ私道のような路地にあり、住宅街のなかにあって8軒ほどの建物が並ぶその一画だけ、小さな商店街のような体をなしている。
角から2軒目がパン屋で、隣はおそらく何かの店舗だったと思われるのだが、いつもシャッターが降りている。その隣は、「不死鳥」という名の喫茶店(というかスナック)、ちなみにここは昼に「コンビーフ定食」という謎のメニューを出しているが、まだ食べたことはない。
それから、カウンターのみの中華料理屋。向かいは、1 階が廃業した八百屋で、2階に人が住んでいる。
職場周辺は、都心周縁部の例に漏れず、古く立て込んだ一画がある日更地になってマンションや建売住宅や駐車場に塗り替えられるといったタイプの再開発がめざましいのだが、このあたりだけは、狭まる包囲網の中、いまだ村っぽい雰囲気を残している。そして、異様に猫が多い。
通勤に使っているバス停にも近いので、仕事の日は朝夕、昼とここを通るわけなのだが、猫に会わない日はないくらいだ。
白、黒、キジトラ、明らかに同じ血を引いていると思われる複数匹のサビ猫…
その中でも、とりわけ人に慣れているサビ猫がいる。
いつも外にいるので、最初はノラと思っていたのだが、ある日パン屋のおばさんが「まさ、まさ、」と呼びかけていたのを聞いて、名前がついていることを知ったのである。
「まさ」って言うんだ!かわいいぞ!
そこで私もさっそく、会えば「まさ、まさ、」と呼びかけるようになった。
それからしばらくして、別のおばさんが、「まさ、まさ。まーさーみーちゃん!」と声をかけていたので、まさの本名も判明した。
まさの名前はまさみちゃん。猫にしては変わった名前だ。
まさみは呼ぶと、「みゃー!」(やっほー)と高い声でこたえて、走り寄ってくる。そのうちすっかり仲良くなって、今では仕事帰りに暗がりにいるのに気付かず通り過ぎようとすると、「みゃ!おー」(おい!)と向こうから声をかけてくれるくらいの仲である。
会えばすりよってきて、いくらでもなでさせてくれるが、顔の前に手を出すと、がぶりとやりそうな気配も見せる。気の強さも持ち合わせた猫の女、まさみなのであった。
まさみはだいたいいつもこの商店街風路地にいて、昼は元八百屋の店先に積んである箱の上で丸くなって寝ていることが多い。
雨の日の朝などは、中華料理屋の店先に入れてもらって、新聞をよむ店主の足元に座っていることもある。そして、夕方以降はたいていパン屋の向かいの作業所か、その隣の民家の前で、人待ち顔で座っている。
作業所の前にはいつもちいさな容器が置かれているので、中の人がときどきごはんなどあげているのかもしれないと思っていた。
そんなある日、仕事帰りに路地にさしかかると、女の人がちょうど作業所の隣の家に帰ってきたところで、その後ろからマサミが待ちかねた様子でついていくのが見えた。そして、一緒に玄関のなかに入っていった。
そうかー、ここんちの猫だったのか。あの女の人が仕事にでかけているあいだは、外に出しているんだな。
それにしては、雨の日も外にいるということが少し気になったのだが、もしかしたら元ノラで、家にひとりでいるのは性に合わないのかもしれない、と納得していた。家中おしっこだらけにしちゃうとかさ。
それからしばらくして、その家に立て替え工事の看板が出た。やがて覆いがかかると、家はあっというまに取り壊されて、更地になった小さな土地に、新しい基礎が作られはじめた。
その間、まさみの姿は相変わらず路地にあった。青いビニールで覆われた基礎の上に、寝ていることもあった。
あの家の猫じゃなかったのか…
そう思っていたところ、ぐうぜんパン屋のおばさんとお客さんの会話に居合わせる機会があった。
ちょうどまさみがパン屋の前に居て、ドアの前で入りたそうにしていたのを、パン屋のおばさんが「まさ、まさ、だーめー」と声をかけており、それを見たお客さんのおばさんが、
「まさちゃんさ、あれなの?工事済むまであんたのとこにいるわけ?」
と聞くと、パン屋のおばさんは、
「んー、毎日でもないけど、来たらいれてやってさ、ふとんで一緒に寝たりするよ、かーわいいよ。」
と言っていた。
パンを選ぶふりして立ち聞きしながら、やっぱりあのうちの猫なのか、ずいぶん無責任なもんだ、と思った。しかし人んちのふとんにまで入り込むまさみもすごいが、入れてやるおばさんもすごい。
この界隈のにんげんの、まさみに対する鷹揚さにはおどろくべきものがある。
さて、その敷地にはまもなく新建材のピカピカの家が建ち(さいきんの家は建つのがほんとうに早い)、おうちの人も戻ってきて、これでまさみの生活は安泰なものになると思われた。
ところが、ほどなく目を疑うような事態が出来した。
なんと、その家が犬を飼いはじめたのである。
それからというもの、夕方になると、小型のコリー犬を連れて散歩にでかけるあの女の人や家族の姿をたびたび見かけるようになった。
それを路上で見送るまさみの姿も…。
なんということだ、古い家とともに、古いペットもおさらばということか。
ピカピカの家に、ピカピカの犬かよ!
ああまさみよ、おまえは見捨てられたのか。
新建材にコリー犬とは、ずいぶんお似合いときたもんだ。
私の心は、どす黒い呪詛でいっぱいになった。
コリー犬に罪はないが、つやつやした長毛が、躍動感あふれる若い四肢が、愛されていることを心から疑わない無垢な瞳が憎らしい。
そのようなもやもやを抱えて、このところ日々を過ごしていたのだが、つい先日、バス停から職場に向かう途中、たまたまいつもの道の一本隣を歩いてみると、ある民家の庭先に、サビ猫が一匹いるのが目に入った。
あれ、まさみかな?と思って庭を覗くと、そこには大小の箱やバスケットがいくつも設置されていて、それがすべて猫の家らしいのだった。
小型のビニールハウスのような手作りの小屋に、大きなキジトラ猫が寝ているのも見える。
そして、庭にはもうひとつ、立て看板も設置されており、そこには、「よろしくね!」と手書きで書かれてある下に、5、6匹の猫の名前と性別、年齢、特徴が記されてあった。
「ミッキー オス8歳 体は大きいがおとなしい」
「クロ子 メス5歳 単独行動を好む」
「まさみ メス5歳 気性があらい」
まさみ メス5歳 気性があらい…
…
…ま、まさみのやつ!!!!
ここのうちの猫だったのか…たった一本裏の道なのに、今まで通ったことがなくて、ちっとも気が付かなかった。
私が今まで会ったことのあるここらの猫、あらかたここんちの猫なんじゃないの。今の職場で働き出して早5年めとなるが、こんなおもしろい家を今まで見逃していたなんて…。
びっくりして立て看板を凝視していると、庭に面した掃き出し窓が開いて(中に人がいた!)、やさしそうなおじさんが顔を出し、
「どうぞどうぞ見ていって」
と声をかけてくれた。
「あの中(ビニールハウス)に寝ているのがミッキー、いちばんやさしくて慣れているの。さっきいたサビ猫はオミソちゃん」
と猫の説明をしてくれる。
「あっあの猫まさみちゃんじゃなかったか」
と私がつぶやくと、
「まさみちゃんはオミソちゃんの姉妹で、だいたいあっちの中華料理屋さんのあたりにいるよ」
と教えてくれた。
やっぱりだ。
まさみには本宅があったのだ。
ということは、あの新建材のおうちの女の人も、界隈の人たち同様に、やってきたまさみをやすやすと家にあげていた鷹揚な人々の一人だったわけだ。そうだったのか。それなら、家を建て替えようが犬を飼おうが、文句を言われる筋合いもない。悪かったよ。私は呪詛の言葉を吐いたことを心のなかで詫びた。
なーんだー、そうだったのか。猫の発生源をつきとめたぞ。
界隈の住人の鷹揚さも相当だが、このうちの鷹揚さもたいがいである。
だいたい、あの看板の「よろしくね!」とはどういうことであろうか。
「うちのねこがそっちにいくからよろしくね!」ということだろうか。
この界隈のみんながみんな、絶妙な無責任さと鷹揚さで、ねことよろしくやっている。奇跡の、猫のユートピア!
誤解を承知でいうと、この界隈の猫への鷹揚さには、職住一体という商店街の性格と合わせて、「住んでる家の古さ」というのが、わりと大きく関わっているのではないか、というのが、じっさいボロ家で猫を飼っている私の実感である。
私も、ピカピカの家に住んで、ある日ノラ猫が来たら、足ふこうかな…とちょっとくらい考えるかもしれないし、ピカピカの柱にできればバリバリしてほしくないときっと思う。
そこでやはり気になるのは、あの新建材の家である。
まさみを家に上げなくなったのは、犬のためだけなのか。
ピカピカの家に住むと、素敵なコリー犬が飼いたくなる、そういうことはあるのか。
このあたりでも、そろそろ建て替え、ということで少しずつ新しい家が増えてきているところでもある。このことについては、これからも注視していきたい。
まさみは、今夜どこで眠るのだろう。
By はらぷ
※「なんかすごい。」は、毎月第3木曜の更新です。はらぷさんのブログはこちら。
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りかさん
田舎なんで 犬の散歩途中に沢山の猫に会うわけなんですが。
猫の帰る家なんて考えたこともなかったですよー。
猫の帰る家、猫の家・・・。
猫に出会うと鳴き真似して ついて来ないかな、なんて思ってるんですが、本当について来たらどうするつもりだったんでしょうね、私ってば。
飼い犬ですら布団に入れないのに。
意外とね反応するんですよ、私の鳴き声に 猫ポン(^^)。
AЯKO
猫を数軒の家で飼ってるってあるある!うちの猫(と思ってた)は、昼の間はよそのお宅で別の名前だったよ。
しかし布団に入って寝てるってまさみはすごいなあ。猫自身にはどこが本宅という意識はないのかもね。飼い主の看板「よろしくね!」には大笑いしてしまいました。猫もその界隈の人達も無責任というか自由というか。犬じゃありえない。
それに人間が同じことしてたらすごいよね。うちの奥さんだと思ってたら、隣んちの布団で寝てたとか、、、。
はらぷ Post author
りかさんさん
こんばんは。おおー、さてはりかさんさん、猫の声帯の持ち主ですな!
猫に出くわす犬の散歩道、なんだかいいなー。
猫はどこからきてどこに行くんでしょうね。
家の中での犬猫ルールって、そのおうちによって千差万別でおもしろいですよね。
布団に入れるか入れないか、テーブルに乗っていいかダメか、おふろに入れる頻度に、あげる食べ物。
私は猫に布団に来てほしい派なんですが、そういえば両親はふとんはNG派で、入ってこられないように寝室はいつもドアをしめています。
そして、昨夜はだれの布団にきたか、翌朝自慢しあう私と妹だったのでした(笑)
はらぷ Post author
AЯKOさん
こんばんは!AЯKOさんちの猫にも別宅が…。うちの猫(と思ってた)って!!(爆笑)AЯKOさんちは夜の家だったわけですね…。
世の中の、猫に対する寛容さって、やっぱりサイズなんですかねえ。
一般的に犬は猫より大きくて力も強いから、いざとなったら殺られるかもしれん…ということなんでしょうか。猫もたいがい凶暴ですけど…。
でも、野良犬がごろごろして自由に生きてる国はけっこうあるけど、人間もそうって場所は聞いたことないですね。
朝家をでると、向かいの家のベランダでおふとん干してるうちの奥さんの姿が…あれー、さてはあっちが本宅だったのか…って……ないわ!!
ぐみ
小型のコリー犬!もしかしてシェルティ(シェットランドシープドッグ)ではないでしょうか?違ったらごめんなさい。実家の、後にも先にもたった一匹の王子様だった愛犬です。
猫たちに優しい住人たち。素敵ですね。今は家に動物がいないので、よそのお家のペットでもたまに触れ合えたり、暮らしに人間以外の生き物がいる生活っていいなぁと思います。
はらぷ Post author
ぐみさん、こんにちは!
小型のコリー犬!はい!シェルティです!!
じつはカリーナさんにも教えてもらって、検索したところ…コリーとシェルティ、…違う犬だよ!!
なんという失礼を…。
でも、ご両人(犬)似てますよね…大きさ以外…。
プードルは大きいのと小さいのがいて、「プードル」と「トイプードル」なのに、シェルティは「トイコリー」じゃないんだわ…だから違う犬だよ。
ぐみさんちの最愛の王子様、シェルティだったのですね。
犬の、すべすべの鼻すじ、いつでも笑ってるみたいな口元、じっと見つめてくる黒い目、もう、もう、お前はお前は…!(ぎゅう〜)とせずにはいられない、ひたむきな存在ですよね。
ちなみに、猫にこれをやると高確率でうざがられます。
私も、最初に一緒に暮らした動物は犬だったんです。父の友人のところで生まれた子犬で、大きくなったらテリアみたいなもこもこ犬になりました。
性格は犬のくせにツンデレで(しっぽをふらない)、でもさびしがりでやさしい、やっぱり最高の犬でした。
今は犬はいないので、2軒となりの犬(ミミさん)と触れ合っています。「暮らしに人間以外の動物がいる」って、ほんとうにいいですよね。動物たちよ、ありがとう!