ああ、感嘆詞。「あやや~」と「にゃ~」のあいだ。
息子があほすぎる。
実家の母にそれを話すと「あ~ら!あーたよりまし!まし!」と高らかに笑われる。
シュジンの母にそれを話すと「い~え!そんなことはけっしてありません!」と教育ママの腕まくりが電話の向こうに見えてくる。
どちらも解決には程遠い。は~~~。
週末はいつも息子を叱っている。ともかく、わたし以上にどんくさい。朝→昼→ とこめかみの血管が熱くなるのがわかる。
怒髪冠を衝くとはこのことだ。土曜は夕方になると お習字に行ってアタマを冷やす。
先生はいつも穏やかで 御髪はふわふわとけぶるように白い。この御髪が冠を衝くということは決してない気がする。
先生はおっとりと話される。そのおはなしに、はっとしたりすっとしたりさせられる。先日のお稽古中はこうだった。
「今騒がれている 野次 っていうの? あれね。わたしは ちーっともたいしたいことないと思うのよ。わたしがむかしお勤めしてたとき、労働争議がしょっちゅうあってね。わたしたちはな~んもわからんの。なんでもいいからそこへ座っちょき、って言われるの。だから仕方なく、座ってるんだけどね。はーまー、そのやりとりが あんな野次とかなんとかのレベルじゃあなかったですよ。
そりゃもう恐ろしかった。恐ろしくて恐ろしくて身の毛がよだった。でも 今はあんなことはしてないでしょうよ。だから 議会で野次を言ってる方は、こんなのはむかしと比べりゃたいしたことはないって思っちょるのかも知らん。ともかく あんなのは 上手にいなしてやらんとせんないですぃね」。
「え?息子さんが言うことを聞かない?どこもおんなじですぃね。そうやって正面からやりあえる今が花ですよ。おやりなさい。おやりなさい」。
この日のお手本は 「 みよ あけわたる ひんがしを 」。
かなのお稽古を始めたばかりなので、一文字一文字が大きい。
みよ あけわたる ひんがしを。 西の空の方向に向かって家路につく。
日曜もあほな息子はあほなままである。このひとには「損得勘定」という計算機能が全くない。生活全般、特に勉強の仕方にそれが顕著に表れる。「そういうやり方は無駄が多くて損でしょ!」と声を荒げて言うと「損して得とれ。急がば回れ。負けるが勝ち。って、むかしから言うでしょ」と50に近い母親に「むかし」を説こうとする。
ひんがしは 一夜明けても あけわたらない。
もうもう最初っからやり直さねばと思う。でももう身がもたんと老体が悲鳴を上げている。
こういうときは「美しいもの」を見るのが一番だ。お花でも買いに行こうかと思うけれど、外は生憎のどしゃぶりである。図書館で借りている本が9冊。その中の3冊は、「くさくさするときのサプリメント本」であり、この「くさサプ本」の割合は、いつの頃からか「借りている本の3割」という一定量を維持している。
『和の菓子』の方は、自分の本棚にあったものを最近お母様を亡くした友人に送った。今はもう絶版らしい。
『和菓子』の方は、わりと最近出た本だが、『和の菓子』と比べると編集の仕方が違う。
『和の菓子』は、たっぷりと余白をとり、間にお菓子の下絵やモチーフになっている日本画がさしはさまれている。
『和菓子』の方は、さまざまな有名店から同じ銘のお菓子を集めそれぞれのページに配置したり、お菓子のインスピレーションそのものの花鳥風月の写真を載せたりしている。
どちらかと言うと、『和の菓子』の編集が好みだけれど、どちらも捨てがたく美しいのはたしかだ。
『樋口可南子のいいもを、すこし。その2』
本当は手持ちの「その1」と、「その2」「その3」を並べて眺めたいところだが、予約中の「その3」の方はなかなか順番が回ってこない。順番待ち一番のはずが、どこかでどなたかのもとで、未だに離れがたく寄り添っているのだろう。
美人は「美しいもの」との相性がすこぶるいい。美人と美しいもの。その両者の「照応」の美しさを、アートというほどの遠距離ではなく、生活というほどの近距離でもなく、程良い間合いで見せてくれるのがとても心地よい。
街になじみ街にたたずむ樋口さんは美しい。美しい樋口さんがたたずむ街の風景もまた美しい。。。
これを見てしまうと、近頃の多弁過ぎるファッション誌は、たちまち新聞の折り込み広告とたいして変わらない気がしてしまう。「われをわれを」という輪郭が うるさい。。。
「おかあさん、何をさっきから『にゃ~』とか『あやや~』とか言ってんの?」
椅子の後ろを通る息子に言われてはっとする。とうとう、口に、出すようになってしまったか。。。
わたしは 自分の好みのものに出会うと「にゃ~」とか「あやや~」とか、おかしな感嘆詞をこころの中でつぶやくくせがある。
「にゃ~」と「あやや~」のあいだに、用法用例の違いがあるのか。。。時折 真剣に考えるけれど答えはまだ出ない。
「あやや~」の方には、もしかしたら「してやられた」「不意、不覚であった」という「悔い」が混ざっているのかも知れない。それでもこのときの「悔い」は後味の良い「悔い」である。
「ともかくさぁ。おかあさんはときどき言ってるんだよ。にゃ~とか、あやや~とか。外でもハッキリ、誰の耳にも聞こえる声で。ぼくはもう恥ずかしくて。おかあさんがデブなのも恥ずかしいけど、そのトシして、にゃ~とかあやや~とか言うのも恥ずかしい。少しはぼくの身にもなってくれ」。
怒りが限界を越えて、意識の輪郭が、決壊しているのかも知れない。嗚呼。。。
さり
はじめまして。
いきなりですが、わかります! わたくし、50歳で小4の男の子の母ですが、息子があほすぎる! 義母に言うと「一応私のかわいい孫なんですが、、、」と言われますし、夫にいたっては、「あんまり怒らないでやってね」と言いますけど、無理難題です。世間では褒めて育てろと言いますが、これも難題です。
美しいものやすがすがしいものにたくさん接して、つかの間の心の平穏を慈しみましょうね。
サヴァラン Post author
さりさま
はじめまして。
ありがとうございます!わかってくださって(泣)
ほんと、小学男子という生き物は理解不能です。
小学校も低学年までは100%かわいい存在でしたのに。。
「褒めて育てる」
以前こんなことがありました。
息子:「ねーねーおかーさん。世の中では褒めて育てるって言うよ?」
わたし:「おかあさんだってあなたを褒めて育てるつもりだったのに~。うえーん(不覚泣)」
息子:「よし。よし」
かくなる上は
美しいものすがすがしいものにこころを寄せて。。。
さりさまにも
みなさまにも
「美しいもの」「すがすがしいもの」
お聞かせいただきたいです。
さり
お返事ありがとうございます。
うわ~子供の台詞も同じですね。褒めろ系本を指して「ママ、ほら、ここ読んでごらん。」って。
ちなみに夫は何か困ったことがあると「にゃう~」って言います。
私にとっての「美しいもの」はお天気さえよければ、木がもこもこの公園(但馬高原植物園が理想)か日本庭園ですが、雨の日は、、、難しいですね。だらだらしてしまいます。あえて言うと雨が地面に吸い込まれたり、はねるのを見るもの好きです。一瞬のことですが。
サヴァラン Post author
さりさま
こんばんは。
ご主人さまの「にゃう~」
オノマトペ人間として、握手ができそうです(笑)
それにしても。
小学男子という生き物は
母親を膝かっくんさせるために棲息しているのじゃないかと
わたしは真剣に思っています。
但馬高原植物園
ここなんですね→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%86%E9%A6%AC%E9%AB%98%E5%8E%9F%E6%A4%8D%E7%89%A9%E5%9C%92
ああ~ ここは素晴らしい。
ああ~ ここは妖精がいそう。。。
雨といえば
ピータースピアーの「雨、あめ」という絵本が好きなのを思い出しました。
「一瞬のことですが」
ああ、いいことばをありがとうございます。