カリーナからゆみるさんへ 2023年2月4日
これは昨年、カリーナとゆみるがメールで交わした往復書簡です。
ゆみるさま
少し温かくなりました!本当によかった。
また少し年をとって寒さがこたえるようになったのではないか…と自分のカラダの衰えを感じています。
実は、ケガしなかったと言いましたが、転んで手をついたとき、左肘を少し捻挫したようで微かな痛みながらも不便な日々です。
ようやくあまり苦にならなくなってきました。
もう、雪が降らないことを祈るばかりです。
10周年に「未亡人対談」(←未亡人!まだ亡くなっていない人!それ、生者全員だ)はいかがなものか…というのは私も思いました。
確かにそうですよねー。普通はもっと華やかなテーマを選ぶでしょう。
でも、ぜんざいに塩昆布をつけるように、甘みを引き立てるために少量の塩気が必要なように、少しビターなものが入ったほうが
「よし、10周年。未来というものはいい(しかし悪いこともある)」的な
引き締まり感があっていいのではないでしょうか(笑)
ゆみるさんの「子供の頃に読んだ、お正月で賑わう大通りを一休さんが錫杖の頭に骸骨をつけて歩くような感じがした」というイメージ、思い描くだけでゾクゾクします。
それでこそ、この世。生もあれば死もある!
ギフトサロンの話も目に浮かぶようでした。
「老婦人とその娘、またはお嫁さん」でお返しを仲良く選ぶ様子…そこには、いくばくかの救いというかほんの少しの明るさもあったのではないでしょうか。
ある種のシスターフッドというか。そこに一人で立つゆみるさんのお気持ちもわかる気がします。
くっきりと際立つ「一人」ということ。
そして、同時に一人だから見える風景と客観的に見つめる自分の今。
ある状況を受容するためには
この「客観的に見れる場所」に立てるのは大事なのかもしれません。
それって「一人で立つ場所」かも、と思います。
わたしは、娘と手続きに行ったのは1度だけでした。夫が亡くなった後の年金手続きでした。
「その後に食事でもしたほうが楽しいやろ」という娘の提案でした。
でも、それまでずっと一人でやってきたし、娘が同伴するとなんだか「世事に疎い母」になったみたいでちょっとイヤだったな(笑)
私、手続きは徹頭徹尾自分でやりたい派なのだとわかりました。
同時に、夫が倒れてからのこの4年間の私を支えてきたのは、
「自分で全部やる(やった)んだ」という自負でもあったんだなと思いました。
ゆみるさん、私は、一人が一番怖かったのは夫が元気なころでした。
これまでも書いてきましたが、私にとって夫は最大にして唯一の親友だったので彼の存在なしで生きて行けるか本当に不安だったんです。
でも倒れた。
死んだ。
わたしは、大丈夫だった。
不思議です。
わたしも特段、話を進めることなくひとまずこれでお送りします。
またお暇なときにお返事ください。
風邪ひかないようにー!
わたしも気を付けます。
ぺるそな
カリーナさん、こんにちは。
10周年に「未亡人対談」をするのを躊躇う、という感覚、少しわかります。
死別後の辛かった頃に出産(女の子)のお祝いに行くのを迷ったことがあるからです。
当時の私は、私が行ったら、内心「招ばれてても普通来ないでしょ。縁起でもない。」と思う人がいるんじゃないか? 『いばら姫』の誕生祝いに押しかけて呪いをかけた13番目の魔法使いみたいな存在に結果的になっちゃうんじゃないか?と異常なほど気にしていました。
最近思うのは、意外と半数以上の夫婦は80代くらいまで二人とも健在なんだなということです。あくまで私の周囲で、ですけれど。そう言っていて矛盾するようですが、配偶者に先立たれる日は、半分の確率で、いつかは必ずやって来るのですよね。日々の繰返しの中に突然、当たり前みたいな感じでそれが来る。順境にいる時ほど考えられないことですが、それを「ありえない」と思って生きるのは危ういと思います。
それと身内や友達が配偶者を亡くす日が来るかもしれない、と考えてみるのも大事なことだと思います。
例えば『死別ブログ』などでは「死別後に言われて嫌だったこと、許せないこと」のトピックが必ずと言っていいほどあります。全員一致でNGとされているのは「当たり前だ!」というようなことばかり。本当に危険なのは、遺された人の気質や状況、お互いの関係(自分は仲が良いと思っているけど、相手は普通としか思っていない)などを読み間違えて地雷を踏むことではないかな、と思います。自分認識で良かれと思ってかけた言葉や励ますつもりの行動が人間関係を修復不可能なほど壊す恐ろしさ。
配偶者を亡くした人になんと言ったら良いか、どのように接したら良いか、は本当に難しい問いだと思います。
もし今友達が配偶者を亡くしたら、私もなんと言って良いのか分からない。夫を亡くしていて、実際に友達一人に心の中で「さようなら」を言った私も、自分がされて嫌だったことは分かるけれど、他の人がされたら嫌なことは分からないからです。
話は変わりますが、カリーナさんのスーちゃんの話をとても親しみを持って読んでいます。
私も夫と2017年の年末に保護犬の譲渡希望を出し、翌年から子犬を飼い始めました。14キロのオスの雑種犬です。「70歳まで元気でいよう!」と言っていて約束を破られたのも、朝晩、1時間ずつ(毎日一万歩)の散歩をしているのも同じです。
この犬は新しい交友関係(拡大中)をもたらしてくれました。人生、絶望もあるけど救いもちゃんとありますね。
カリーナ Post author
ぺるそなさん
コメントありがとうございます。そして、記事を読んでくださって本当にありがとうございます。
「日々の繰返しの中に突然、当たり前みたいな感じでそれが来る。順境にいる時ほど考えられないことですが、それを「ありえない」と思って生きるのは危ういと思います。」
本当にその通りですね。
街で私より年上のご夫婦を見かけると、二人でいることが当たり前で
何の疑いもなく暮らしている様子が表情や歩き方からわかります。
それを幸せというのだと思うとともに
一度失ってからわかるみたいに、
関係を更新できたらもっといいのかもしれないな、とも思います。
多くの人々は、どこか倦んでいるようにも見えるので。
(ああ、でもそれでいいのかもしれません!)
私は、今の夫と会って二人で座って話をする場面をよく想像します。
とてもさりげなく話しているのですが、
私は夫が倒れてからのことをどこか夫に対して申し訳なく思っていて、
どんな顔をしようかと考えていたりしています。
ぺるそなさん、なんと!保護犬であることも、その時期も、
散歩の距離まで似ていてびっくりです!
犬を飼うとは、散歩をすることなり(笑)
前を向いて明日も犬と歩きましょうね。
私も歩きます!