50代、男のメガネは近視と乱視とお手元用 ~ 就活、婚活、終活…。全部まとめて、生活じゃないか。
就活、婚活、終活…。
全部まとめて、生活じゃないか。
就職活動を就活と呼び始めたのはいつ頃だっただろう。何でもそうだけれど、短く縮める言い方にものすごく違和感があった。だいたい、短く言うことで、物事は形骸化して本来の意味を失い、言葉だけが踊り出す。その踊り出した言葉が別の価値を生み出して、有象無象がわらわらと動き始めるのが常である。
そして、いちばん嫌悪すべきなのは、就職活動をしている学生たちまでもが、就活という言葉に踊らされてしまい、脅迫され、追いつめられ、はては逆恨みを始めるという事実である。
嫌ならやめればいい。就活なんてやめてしまえばいい。就活しなくても好きなように生きてやればいいじゃないか、と思う。就活で儲けている企業に踊らされる必要もないし、就職課が手を抜いている大学の思うつぼにはまりこむなんて、まっぴらごめんだと僕なら憤ってしまう。
婚活だって同じだと思う。縁がなければお見合いでも結婚相談所にでも駆け込めばいい。別に婚活パーティが悪いとも思わない。でも、婚活パーティーに行けばなんとかなる、と思いこんで、うまく行かない場合に必要以上に落ち込んだりめげたりする人がやたらと多いのが気に掛かる。それは就活だって同じだけれど。
どの「~活」にしても、「~のために」活動するというところに、なんとなく違和感を感じるのだろうと思う。就職も婚活も根っこにあるのは「ちゃんと見る」ということと「ちゃんと見てあげる」ということなのだと思う。
ということは、どういうことなのか。「~活」を意識し始めてからって、何かができるようになるわけじゃないぜ、ということだろう。
普段から人とのコミュニケーションを大切にして、自分を勘違いされないように、相手を上っ面だけで判断しないように…。
そうやって、新しい交流や新しい可能性や新しい未来を手に入れていく。とここまで考えてくると、それって本来の「生活」じゃないか、と思いいたる。
「終活」なんて、ちゃんと生きてきたかどうか、ちゃんと生活してきたかどうか、それぞれの終わり方があるだけで、「ああ、人生も終わりだ」と思ったときに何かしようったって、時すでに遅しだ。
とは言っても、「~活」という言葉で人生の節目に何かを意識して、何かを始めたり、何かに留意することは決して悪いことではないはずだ。
でも、まともに勉強もせずに、就活というシステムに乗っかって、うまく行かないからと就活というシステムを恨むことができる現状は、あまりよろしくないと思える。
システムを楽しめればまだしも、仕方なく動いているくせに、そんなシステムには乗っかりません、という宣言も出来ない人ばかりが増えている、という現状を嘆き、恐れ、問題視すべきなんだと思う。
と、書きつつ、僕も明日から生活をちゃんとしよう、と、ノートの隅っこに早寝早起きなどと書き付け、よし、実行するぞ、と思うわけである。たぶん、きっと、明日の朝は…。
植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、オフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京神楽坂で暮らしてます。
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