愛の構えをどうするの?
ASKA被告、という呼び方をそろそろどうにかしてほしいのだけれど、ASKA被告と呼ばないと、チャゲの相棒だとわからないのでどうしようもない。
もともと、歌詞を見ればそれほど頭のいい人とは思えないのだが、ここまで駄目な人だったとは思わなかった。それでも、一緒に逮捕されてしまった愛人のことを「大切な人」と法廷で証言したことで、僕はASKA被告をえらいなあと思うのだった。
掌を返したように、「ASKA被告から知らぬ間に覚醒剤を投与されたのです」と言い出した元愛人のほうが本来は普通の態度のような気がするのだけれど、ASKA被告の「大切な人です」という発言が元愛人をとてもゲスな存在へとおとしめているところがおもしろい。
ASKA被告の『愛の構え』が元愛人をさらにおとしめてしまっているよ!とそれこそASKA被告に弁護士さんから伝えてやって欲しい。それでも、そういうところだけ馬鹿正直なASKA被告は「それでも、大切な人なんだ」と言ってしまうのだろうと思う。
一概には言えないし、全部がそうだとは思わないのだけれど、ASKA被告と元愛人の証言を見ていると、男と女だなあと思う。男のどうしようもなさと女のどうしようもなさが、とても分かりやすく表面ににじみ出していて、そこがとても愛おしくなる。
そして、これはここ最近の僕の思考回路の妙なところなのだが、そういう男と女の愚かしいところを肯定してから、人を見ないとえらいことになるような気がしている。もちろん、肯定して許すということじゃなく、肯定してから弾劾してもいいのだけれど、それでもスタート地点であの曖昧さや猥雑さや愚かしさを肯定しないことには、すべてがややこしく複雑になってしまう気がするのだ。
なにが言いたいのかちょっとわかりにくくなってしまったが、要するに(と言うときに、ちゃんと話が要約されることは少ないのだが、要するに)人としてのややこしさをちょっと横に置いておいて、やったこととか言ったこととかを冷静に見る必要があるということだ。そして、もっと大事なことは、最後の最後に、その人間のややこしさをもう一度思い出して、最後の結論に、またちょっとゆるい遊びの範囲を設けてやるといいのではないか、という気がしている。
いやこれ、自分でもちょっとまだ明確にひらめいた話じゃないのですが、ずっとモヤモヤとくすぶり続けていることなので、うまく説明出来ないのですが、なんとなくこうじゃないかな、という気がするんです。
この事件に限らず、男と女のややこしさとか、人の愚かしさを受け入れて、でも許さずに、だけど忘れずにちゃんと加味しながらいろんな物事を考える。それが、これからのネットを中心としたデジタルサービスにすべてが移行するときに、人が道を踏み外さない大切な規範になるのではないかと思うのです。
いや、違うのかなあ。なんとなく、大事なことの近くに寄っている気もするんだけどなあ。
植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、オフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京神楽坂で暮らしてます。
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nao
うんうん、とっても大事なことなのだと、私も思います。
デジタルってすごく合理的なモノだから、日本人的な律儀さを発揮すると
そちら側に価値観が寄り添っちゃいそうで。。
人はもっとみないびつだし、男女はもやもやして説明つかないことばっかりだし
その面倒くささをあまり簡単に片付けない方がよい気がしますよ。
まあ面倒くさいんですけどね、ホントにね。。
uematsu Post author
naoさん
瞬間的に「おかしいぞ!」と思うことは、とても大切なことだとは思うんですが、それ以上に、そんな気持ちをいったん抑えて、なにがおかしいと思うんだろう?と、考えることが大切なんじゃないのかと、なんだかそんなややこしいことを考える秋の夜。