ああ、極論。あちらとこちらのあいだ。
ここ数日、ぼんやり考えていることがある。
息子が剣道のお稽古に通っていた頃のこと。わたしは息子を試合や昇級試験には参加させなかった。わたしが息子を稽古に通わせる目的は、試合に勝つことや昇級することとは別のところにあったので、その折ごとにお断りをし続けた。
その度、ある稽古仲間のお母さんは言った。「なんで参加させないの?参加させることで強くなるのに」。
「ありがとう。でもね、うちはやめておくわ」。
個人が強くなるということもたしかにある。でも、全体の士気が下がる、場を壊す、ということでもあるのだろう。
息子のクラスにはずっとお休みをしている女の子がいるらしい。「運動会には来なかった。修学旅行には来たのに」。
息子のつぶやきがわたしには気にくわなかった。でも、息子の心理がわからないわけではない。
「なんで参加させないの?」と口にする稽古仲間も、「修学旅行には来たのにそのあとはぷっつり来ない」と口にする息子も、その湿度のある粘着質な心理にわたしも思い当たるのだ。
わたしはがんばっているのに、どうしてサボるの?どうしてそこから一抜けするの?
うちの中で「おかあさ~ん、あれ、どこ?」と言われることはとても多い。あそこのここのと説明するのが面倒で、わたしがそれをとりに行っているあいだ、「あれ、どこ?」と訊ねた本人がネットでど~でもいいページを開いてへらへらしているとカチン!とくる。
今、自分には負荷がかかっている。それなのに、あのひとにはそれと等価の負荷がかかっていない。不愉快だ。
はなしはとんでもない方向に飛ぶのだけれど。
以前、麻生太郎さんが終末期医療に関連してある発言をして物議をかもしたことがあった。
いいかげんに死にたいと思っても『生きられますから』と生かされたらかなわない。さっさと死ねるようにしてもらわないと
「終末期にあって、生きる努力をしている患者やその家族、医療関係者に失礼この上ない」という非難が囂々だったと記憶する。
麻生さんは 個人的な死生観を公の場で発言したことは適当ではなかったと発言をすぐさま撤回した。
麻生さんの発言は、たしかにかなり乱暴な気がする。それでもある種の光を含んでいる気もしている。
こちら側の理屈だけで、あちら側をはかることは、ずいぶん乱暴な気がしてしまう。おまけにそれはたいていの場合、こちら側は絶対多数で、あちら側は少数の異端だったりするから余計に。
こちら側は多勢をもってして、自分の側の正当性をあちら側にのみ込ませようとするから、あちら側のにんげんは押し黙って困窮するしかない。
またまたはなしは飛ぶ。
先日シュジンが東京に行って、学生時代の友人夫婦と久しぶりに会ったらしい。あちらはお子さんが三人で、大学生が二人、高校2年生が一人。わたしもお子さんが小さい頃は会ったことのあるご家族で、このお宅のお母さんがマリアさまのように優しく素晴らしいひとだということは知っている。
その彼女が笑いながら言ったという。「たとえ親子でも、合わないものは合わない」と。
なんでも三番目のぼくと彼女の衝突が激しいらしい。「それでもだんだんお互いの距離の置き方がわかってきたわ」。彼女は賢明だ。
親子であっても、いや親子だからこそ、どうにもならない関係というものがあるような気がする。
どうにもならなさというのも、実際はさまざま深刻さがあって、本当にどうにもならないところまで行き着いたとき、親はどうするべきなのだろうか。
全うな正攻法でうまくいけばそれに越したことはない。
正攻法が通用しないとき、異相に身をずらすことも必要なのかも知れない。
悲し過ぎる出来事は、ときとしてひとを襲う。そのことを「こちら側」の理解で推し量り「わかろう」とするのはやはり「こちら側」のひとのすることであって、「あちら側」のひとの真意は、どこか別の時空を彷徨っているのかも知れない。
pinkmaman
初めまして、こんにちは。
台風18号が去り、ホッとする間もなく19号の情報が
テレビのから流れてくる7日の午後。
リモコンでプチッと電源を切りました。
時々、やさぐれ日記等読ませていただいています。
1人で思わず笑ったり、「そうだよねぇ。」と感心してみたり。
沢田研二さんのについての文章には深く感動してみたり。
同世代の、それも力量のある文章に出会えた幸せに
52歳の母であり、妻であり、娘でもある私は感謝です。
「あちら」と「こちら」、、、。
2人の息子も22歳と20歳になり
あんなに大変だった母業も
ここのところ急速に最終章に向かっている気配濃厚。
長男は
中学2年生の秋から7年程不登校や引きこもり。
その間に二男もご多分にもれず不登校、高校転入等。
いろいろなエネルギーが家族の中で
吹き荒れていたなぁ。確かに「こちら」側で。
不登校が始った当初は何人かの息子の
同級生のお母さん方が「こちら」から
いろいろとアドバイスをくれたり、情報をもたらして
くれたり。
私も涙ながらにその「こちら側の優しさ」に感謝し、
孤軍奮闘しつつ、
息子への作戦を考えては状態をこじらせていました。
「こちら」に居続けていた私が
息子たちを愛情という「こちら」特有の
鼻持ちならない勘違いで縛りつけ、
優しい息子たちは悲鳴をあげだすことに
なりました。
彼らの本気の抵抗に会い、数年かかって
私は「あちら」を知ることになっていきます。
悲しみ、憂いを含む「あちら」側。
人生の奥行きはあくまでも深い。
日本のあちこちで親子,家族の悲劇が
起こっています。
どうにもならない苦しみ。悲しみ。
小さな人間として何をし、
どう考えるか。
時間に押し流され、また記憶の
彼方に、、、。
これまた極論か。
nao
つい先週、仕事で大失敗をやらかしまして、、、
相手の方の相容れない価値観、不当(と思えるよう)な要求、自分の傷つき
耐えられずにとった防御態勢、その結果起きた失敗の結末。。
取り返しのつかないことになりかねず冷や汗をかきました。
共感できない相手は怪物ではなく
さほど自分と変わらないものを何で受け入れられないだろうなー
身をかわす余裕のなさが暴力を生み、被害感だけが増すのだと思いますです。
サヴァラン Post author
pinkmaman さま こんにちは。
今日のそちらのお天気はいかがでしょうか?
お返事が遅くてすみません。
コメント、しみじみと読ませていただきました。
おはなし、お聞かせくださってありがとうございます。
こちらにはこちらの切なさと優しさがあるように
あちらにはあちらの切なさと優しさがきっとある。
互いの言い分はともすると「極論」になってしまうけれど
「切なさと優しさ」という点ではしっかり地平がつながっている。
「思いやり」というのは
その「あちら」と「こちら」を乗り越える辛さでもあるのかな
と思ったりします。
pinkmaman さんは
「相互乗り入れ」をなさったんですね。時間と痛みを越えて。
わたしもそうありたい……と切望します。
>悲しみ、憂いを含む「あちら」側。
>人生の奥行きはあくまでも深い。
いいお言葉をいただきました。
秋晴れの高い空のように、「人生の奥行きはあくまで深い」
ここに希望を見出したいと思います。
サヴァラン Post author
naoさま こんにちは。
もう数年前のことになりますが
懇意にしていた(つもり)の方から
全く想定外の攻撃を受けたことがありました。
それはもう「意見の食い違い」というレベルを越えて
難癖、屁理屈、人格攻撃、、、
わたしにはそうとしか受け取れないほどのとてつもないエネルギーに
面喰いました。
これはあかん。
そう思って距離をとろうとすると
それでも追いすがって攻撃を止めない相手。
彼女の言動はわたしには全く理解ができませんでしたが
時間が経った今、つくづくと思うことは
「あれほどの攻撃性をむきだしにしなければならないほどの
やむにやまれない孤独という激情があったのだろうな」
ということです。
わたしはもう彼女と言葉を交わすことはしませんが
彼女の「孤独」とは、どこかでつながっている気がしています。
kokomo
初めまして。
サヴァランさん、pinkmamanさん、naoさんの文章、
すべて興味深く読ませていただきました。
我が家の中学生の娘も、2学期になってから不登校になりました。
小さいときから他人とのコミュニケーションが苦手だった娘。
小学校のときから頑張りに頑張って学校に行っていたようですが、
ついにぷちっと糸が切れてしまったようです。
「自分から話しかけないとダメなのはわかっているけれど
人にどうやって話しかけたらいいのかわからない」といって悩む娘。
他方、娘に「お母さんは気軽に他の人に話しかけられるからいいよ」
といわれるような「しゃべりすぎ」な私も、他人からの拒否や
批判に遭って傷つくこともしばしば。
そういう意味では私は、サバランさんの言うところの、娘の「孤独」とは
どこかで繋がっているような気がするんですよね。
お互いにそれがもっと分かるようになったら、
娘も私ももう一歩踏み出せるのかなと思っています。
サヴァラン Post author
kokomo さま はじめまして。
コメントをありがとうございます。
お返事が遅くてすみません。
お住いのあたりの台風は、大過なく過ぎてくれましたでしょうか?
こちら山口は 昨日月曜の夕方に暴風がしばらく吹いておりましたが
今は台風一過の高い空が見えています。
とてもお恥ずかしいはなしですが、
この連休、うちではこの台風とは別の台風が家の中に吹き荒れておりました。
台風の目は11歳の息子です。
「自分から話しかけないとダメなのはわかっているけれど
人にどうやって話しかけたらいいのかわからない」と
おっしゃるお嬢さんは、きっと繊細で誠実なお嬢さんなんでしょうね。
こういう繊細さ、誠実さ、わたしはすっかり手離してしまいました。
でも、過去のある時期にはたしかに持っていた気がします。
昨日は窓の外で大きく揺れる木々を見ながら
みんなゆれてるんだよな、ととぼけたことを思ったりしました。
息子もゆれているし、わたしもゆれている。
だから、ぶつかるし、だから寄り添える。
お嬢さんは「お嬢さん」としての日々を、
大事にゆっくり過ごしていただきたいな。
きれいなもの、好きなもの、こころくすぐるもの。
娘のいないわたしは、特にそんな時間を共有できる「母娘さん」を羨ましく思います。
勝手なことを申しました。
よろしければまたお立ち寄りください。
コメント ほんとうにありがとうございます。