エピソード4*ピアノのあるおうち。
聞いた話を形に残すことを仕事にしている「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしいエピソードをご紹介していきます。
【エピソード 4】
前回に続いて、合唱の先生をしている咲子さんのお話。
NHK専属合唱団で青春時代を過ごした彼女の89年の人生は、
どんなふうに音楽に彩られてきたのでしょうか…。
それは、咲子さんの家にやってきた一台のピアノから始まりました。
昭和ヒトケタの頃のお話、一般家庭でピアノを買うのは珍しいことでした。
少し後の時代になりますが、
1948(昭和23)年から5年あまり製造された
ヤマハのアップライトピアノ#100の希望小売価格は195,000円!
大卒の国家公務員の初任給が3,000円の時代です。
1942(昭和17)年頃製造されたヤマハピアノ
「父は旧制中学の社会科教師で、私が生まれてすぐの頃、静岡に赴任しました。だからピアノは浜松の楽器店まで買いに行きましたよ。今でもよく覚えてる。ピアノがズラーっと並んでました」
そもそもお父さん自身が、ずっとピアノをやりたかった人なんだとか。
でも時代が時代。「男がピアノなんてやるものじゃない」と反対され、
教師の道に。だから娘ができたら絶対ピアノを習わせたい……
お父さんの夢は、6人の娘たちすべてに降り注ぎます。
そう、咲子さんは6人姉妹の3番目。
なんと6人の娘さんのうち4人が、音楽の道に進んだのでした。
「小さいうちは父がピアノを教えてくれました。
旧制女学校を卒業後、東京に出て歌の先生のお宅に下宿したのは、
そこにピアノもあったから。当時としては珍しいわよね」
すでに咲子さんの姉2人は東京音楽学校(現東京芸術大学)に入っていました。
咲子さんは、敗戦の気配が濃くなった昭和19年、
藤枝や島田に疎開して、やがて自宅で終戦を迎えますが、
戦後、再び受験勉強のため東京に戻ります。
今度の下宿先もまた、今思えばスケールの違う、
でもやっぱり咲子さんには願ったり叶ったりのお宅でした。
「友達に岩手県の大きなお寺のお嬢さんがいて、
目黒の柿の木坂に家を一軒借りてたのね。
ピアノはもちろん、ばあやさんも一緒に。すごいでしょう?」
芸大を目指す受験生2人とばあやさんの生活。
住まわせてもらう身としては、
万が一にも自分だけ合格するようなことがあったら大変。
「でも2人仲良く合格しました。本当にうれしかったわ」
日本最古の洋式音楽ホールを備えた旧東京音楽学校奏楽堂
(明治23年建造)
入学後は、上野の寄宿舎に移りました。
終戦直後の上野には「浮浪者」も大勢いました。
だから外出からの帰りには、
寄宿舎の女中さんがわざわざ駅まで迎えに来てくれたのだとか。
今の国立大学からは考えられません。
何より寄宿舎に「女中さん」がいたなんて…。
終戦直後、まだ人々が食べることだけで精一杯だったあの頃ですが、
若い芸術の芽を育むことで新しい日本をつくろうとする熱のようなものが、
早くも上野の森にはあふれていたようです。
「父には感謝しています」と咲子さんは言います。
当時は近所でピアノのある家なんか一軒もなかった。
そんな中で幼いときからピアノに触れさせてくれて、
それでも練習は厳しく、決まった時間はピアノの前に座らなくちゃいけない。
ピアノなんて火事で焼けちゃえばいい、
そんな罰当たりなことを思ったこともありました。でもね…と咲子さん。
「大学出てNHKの合唱団に入って、
結婚してからもたくさんの子どもたちにピアノを教えて、
そして今は同世代の人たちとコーラス。
こんな人生を歩めたのも、すべては父が買ってくれたピアノのおかげ」
娘たちに音楽の夢を託したお父さんは、
ある年の大晦日、静かにその人生を閉じました。
病院でお父さんの枕元のラジオから流れていたのは、ベートーベンの第九。
「気づいたら息してなかったの。
えーっお父さん、第九を聴きながら逝っちゃったのね、と」
今も生き生きと音楽を楽しむ咲子さんを、
天国から見守ってくれていることでしょう。
- 写真/佐藤穂高(広島在住のプロカメラマンです)
- 有限会社シリトリアのHPはこちらから★月亭つまみとまゆぽのブログ→「チチカカ湖でひと泳ぎ
★ついでにまゆぽの参加している読書会のブログ→「おもしろ本棚」よりみち編