エピソード11★小僧のフサさん。
さてさて、聞いた話を形に残すことを仕事にしている「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしいエピソードをご紹介していきます。
ほんとうは先週配信予定の「あの頃アーカイブ」ですが、休みたくない貧乏性の私たち。
お願いして1週遅れでお届けさせていただきます。
【エピソード 11】
北関東の「かなり田舎」の村で育ったスミコさん。7人兄妹の上から3番目、長女です。幼いながら妹や弟の世話をよくする少女でした。彼女の家に、さらに山奥からやってきた小僧さん。「小僧さん」は父とも兄とも違う、頼もしいながら、もっと親しい存在だったのでしょうか。今回はスミコさんの文章を元にまとめたその小僧さんとのエピソードです。
◆フサさんがやってきた
わたしが五歳くらいの時だったと思うのだが(今は二人の兄も両親も亡くなってしまい、聞ける人がいない)、皆が「フサさん」と呼んでいたフサ吉さんがうちに来た。
山を越えた向こうのさらに山奥の村から、フサさんは小僧としてうちにやって来たのだ。フサさんの家は貧しくて学校に行っていなかった。うちに来てから、すぐ裏にあるわたしたち兄妹も通った小学校の夜学に、四年生として通うようになった。
日中はわたしたち姉妹と弟のお守り、掃除、お風呂の水汲みとたきぎ拾い。フサさんは学校が嫌いだったが働き者だった。
お風呂の水汲みは重労働だ。うちには井戸があったがあまり水量がないので、食事用に使ってしまうと風呂の水は道の向こうを流れる川からバケツで汲んで来なくてはならない。わたしたち姉妹も学校に行く前に、三年生になら三杯、五年生なら五杯と、みんなでお風呂の水を汲んでくる決まりになっていた。
川は道から5メートルくらい低いところを流れていたので、家ごとに道から川へ降りるはしごを作っていた。バケツを持ってハシゴを降りたり上ったりするのは大変だった。魚が泳いでいるのが見えるほどきれいな水の川で、野菜もいつも川で洗っていた。
◆フサさん山を歩く
フサさんのお給金は故郷の親が取りに来ることになっていて、自分では一銭も自由にならない。盆と正月には家に帰るので、少しのお金をあげていたが、電車に乗らずに前の山を越えて歩いて帰るようだった。電車は二両編成で二時間に一本しかなく、駅を降りてからもたくさん歩かなくてはならないので、山歩きの得意なフサさんには歩く方が楽だったのかもしれない。
山で何か採るのが得意で、秋には栗、きのこ、ふきなど、朝四時に起きてたくさん採ってきてくれた。わたしたちは兄妹のように仲良しだった。
◆フサさん戦争に行く
やがて、フサさんは二十歳になり、小柄だったが兵隊に行くことになった。実家に帰ってご両親に会ってから行くようにと言ったのに、わたしの家から出征して行った。あまり字も書けなかったので手紙も届かず、戦死の知らせだけが届いた。
本当にかわいそうな一生だったと思う。戦争がなければ、生きていれば、違う人生で、もっと楽しいこともあっただろうに。自分も二人の子どもの親として、フサさんのご両親のことを考えると、こんなひどい、悲しいことはないと思う。
兄二人が亡くなり、わたしも八十歳を超えた今、フサさんのことを覚えている人はもうほとんど残っていないだろう。勉強嫌いで喋るのも苦手だったフサさん。わたしと妹たちと弟を可愛がってくれたフサさん。働いて、働いて、戦争に行って、二十歳そこそこで死んでしまったフサさん。あなたが生きていたことを、わたしはあなたを忘れてないことを、ここに書いて残しておこうと思います。
- トップの写真/佐藤穂高(広島在住のプロカメラマンです)
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マキ
フサさんの生涯、なんか悲しくなってしまいます。でも覚えていてくれる人が一人でもいれば生きていた甲斐があるかしら?戦争さえなければ、結婚して、子供がいて、そんな生活できたのかな?
私が親として二人の子どもに望むことはそんな平凡な生活だから、フサさんのご両親の悲しみが染みてきます。
まゆぽ Post author
マキさん
コメントうれしいです。
フサさんの人生はたしかに短くて、働きづめで、
悲しくなってしまいますよね。
でも、マキさんに、頃アーを読んでくださった方に
フサさんという人がいたんだなあと
時々でも思い出していただけたら、
フサさんの記憶はこれからも生き続けられるような気がします。
マキさんと、読んでくださった皆さまに感謝、感謝。