つばた夫妻は革命をやってたかも、という直観はあながちまちがいじゃなかった。
(これまでの原稿を)読んでいて、「最終的に人生フルーツ見てないのわたしだけじゃんおい…」と思いました(笑)みなさんが異口同音に言っている、この夫婦のやりすぎ感、そこはかとない気持ちわるさ、確信犯的な感じ、そこが一番気になっています。(つまみさん、動画で見たって言っていたけど、ネットでも見られるの?ちょっと検索したけど見つけられなかった。)YUKKEさんの書いていた共謀者の感覚、すごくわかる。これは、なんだか自分たちにもちょっとあてはまるな…と思いました。同じ夢、同じ方向というのは違うけれど、同じものをみてニヤッとする、うへえッって思う、という共犯感覚。
あと、つまみさんの書いていた「劇場型」と、カリーナさんの書いていた「観客の内在化」。これ、まさに。膝をうった。じぶんのなかにも「YAZAWA」はいるなあ。意図せず出てくる自分自身と、周りから見えるイメージと、そう見られたいというちょっとやらしい自分の姿が渾然となった「YAZAWA」。自分のなかにみんな劇場をもってて、無意識にでもその舞台にたってるからこそできること、やってることってたくさんあると感じます。たぶん仕事とか、親戚付き合いとかもそうですよね。あ、冠婚葬祭のときってそれが発動しやすいかも。しごと≒劇場っていうこともあるのかもしれないなあ。
わたしなんて、職業と人生がごっちゃになってるとこあるから、「図書館員としてのわたし」なんてまさに「YAZAWA劇場」だわ!で、それが茶番だろうが欺瞞だろうが、もはや私はすべてそれを肯定する立場です。茶番上等。嘘もつき続ければ本物になる。私が見てもいないつばた夫妻に「革命」を感じたのも、もしかしてそういうところかもしれません。
でも、そうしたら夫婦のセット感、物語性も肯定しておかしくないのに、という矛盾がわきおこりますがそれは迷宮入りだ…。そういえば、今回のことで、オットに「夫婦」っていう単位にキャラクターは発生すると思うか?と聞いてみたら、「そりゃあるでしょ」という答えが返ってきました。「友人のGが、きみたち2人は千駄木が似合う、って言ったことがあったじゃない。千駄木の、エレベーターなしの古いビルの4階が住まいなんて、って。それってそういうことでしょ?」って。
だから、自分たちも往々にしてセットとして見られているんだろうなという気はします。も、物語性、おおありじゃん!
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<はらぷさんから、カリーナとつまみさんへのメール 12日後>
ようやっと、つまみさんがリンクを送ってくれた「人生フルーツ」を最後までみました。つまみさんにはちょっと話したんですが、リンクを教えてもらってわりとすぐに、一回観はじめたんですけど、なんとわたし、途中で寝たのですよね。かなり序盤で。疲れていたということもあるんでしょうけど、じぶんに愕然としました。
それで、少しうちひしがれて放置していたんですけど(おい)、今日あらためてみました。そしたら、すごくおもしろかった。
映画の中で、知人の人が、つばたさんの暮しを「スローライフ」と表現していたけれど、このひと隠匿どころか何十年もかけて壮大な実験をしているんじゃんと思った。このひとのしていること、創造主だ、国造りだよ。。。そして、コンビニはいかない、買ったものを口にしない英子さん、英子さんこそがこのユニバースを回している人だと思った。闘士だ。このひとの信念が、なんだかこわいようにも感じました。英子さんいなかったら、修一さんはけっこうへいきでパンかじって生きてたような気がするなあ。
最初の10分くらいのおだやか(にみえる)描写にうっかり寝ちゃったけれど、とんでもない映画でした。つばた夫妻は革命をやってたかも、と感じた直観はあながちまちがいじゃなかったと思いました。
この映画のことは、またあらためて書きたい気がします。