メカスがいなくなった世界で。
前回のコラムで映像作家ジョナス・メカスが亡くなったということを書いた。あれから一週間経ったのだけれど、メカスを思わずに過ごせる日はなかった。
僕は毎日小さなムービーカメラを持ち歩き、1カットでもいいから撮るようにしている。そんなときに、「リトアニアへの旅の追憶で、こんなカットがあったなあ」とか「手ぶれ補正なんて使わず、ブレブレの画でもメカスは素晴らしかった」などと思い出してしまうのだ。
メカスの作品がすばらしく軽く、そして重いのは、彼の手ぶれによって、彼の荒い息づかいによって、僕たちの日常と軽々と地続きになるからだ。こうなるともう、面白いとか面白くない、わかったとかわからない、という話はまったく無意味になる。
そして、ふいに「メカスがいなくなった世界で」という言葉が浮かんだ。と、同時に、数年前に東京神田にあったスタジオイワトを思い出した。ここで詩人・藤井貞和の詩の朗読会が開かれたのである。
大好きな詩人の、とても小規模な朗読会ということもあり、僕は心待ちにしていた。この朗読会は、藤井貞和が書き下ろした新しい詩を、詩人本人と参加している人たちが交互に読み継いでいくというものだった。
詩人が一区切り読む。参加者の読む。再び、詩人が読む。また、どこの誰とも知らない参加者が読む。そうして、一編の長い詩を完成させるという試みだった。
僕は少し後ろの席に座り、いつ自分に順番が回ってくるのかと緊張しながら、それなりに冷静に会場の様子を見ていた。その時に、ふいに「いまここにいる人たちが一瞬にして消えてしまっても誰も困らないなあ」と思ってしまったのだった。
大変失礼なもの言いになるかもしれないが、休日にほとんどの日本人が名前さえ知らない詩人の朗読会に集まり、しかも、自分も一緒になって詩を読むという小さなイベントに集まって来ている。そんな人の中に、今日その人がいなくなったら、例えば日本経済が立ちゆかなくなる、という大きな視野での重要人物がいるとは思えなかったのだ。
ちょっとした言葉の並べ方に微笑んだり、唇を噛んだりする人たち。たまたま集まった見ず知らずの人とと、その詩のユニークさを語り、心を弾ませ、本当に身体を温かくしてしまう人たち。背中にいくつもの毛玉がついた大切に着古したセーターを着て、角がすり切れてしまうほど使い込んだ、革のショルダーバッグを足元に置いて詩を楽しむ人たち。
自分も含め、ここにいる人たちが一瞬にして消えてしまっても大きなニュースにもならないし、社会への影響もとても小さく、もしかしたら親族以外だれも気付かないかもしれない。なんとなくアカデミックで、なんとなく社会的には弱そうな人たちが、強く、とても強く詩を必要として集まっている。そんなふうに感じたのである。
これが谷川俊太郎ならそうはいかない。彼の詩の朗読会なら、有名なテレビのディレクターがいたり、大きな仕事を抱えているコピーライターがいたり、もしかしたら、谷川俊太郎とのインスタ映えする写真を撮りに来たフォロワー数が何万人もいるインスタグラマーだっているかもしれない。そんな人たちが一瞬にして消えてしまったりしたら大騒ぎだ。
僕は谷川俊太郎も大好きだし、彼の詩集も大半を読んできた。その印象として、谷川俊太郎は面白いということをちゃんとわかって書いている、という気がする。しかし、メカスや藤井貞和は面白いかどうかわからなくてもいい。それさえも面白いとちょっと不安げに「わかってもらえないかもしれないし、僕もよくわからないんだけど」とそっと作品を差し出してくるような感覚があるのだ。
そして、その立ち居振る舞いこそが、彼らを偉大な創作者として僕の胸に刻み込んでいるのかもしれない。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在は、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師も務める。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。サイト:オフィス★イサナ
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