チビタン笑学校
赤塚不二夫が描いた校章がドドンと映し出されると、『チビタン笑学校』というタイトルが大きく出てくる。司会はいまでは四代目春団治を襲名した桂春之輔と、タレントのキャッシー。まあ、素人名人会の子供版のような演芸番組だった。
笑学校と称しているので、いわゆる学校という形式。生徒たちは落語、漫才、コント、手品などを披露する。それをプロの落語家や漫才らが審査して、確か3つの部門で合格するとプロに弟子入り出来るという特典がついていた。
この番組で校長先生役をやっていたのは、関西お笑い界の重鎮、喜劇作家の香川登枝緒先生。そして、審査していたのは、笑福亭松鶴やかしまし娘などなど、本当に一線で活躍していた人たちばかりだった。
この番組の第1回をたまたま観ていた僕は、すぐに番組に応募して予選大会へと出かける。それまで、密かに落語のレコードを聴いたり、本を読んだりしていた僕は、この番組に出ればプロに弟子入り出来ると勢い込んでしまったわけだ。
しかし、当時まだ小学校5年生。住んでいた兵庫県伊丹市から大阪の朝日放送まで出かけて、予選を受けるのはハードルが高すぎた。当時の子どもは交通費ほどのお小遣いももらっていない。必要な時に必要なお小遣いをもらうので、仕方なく僕は「大阪まで行くので、電車賃をください」と父親に願い出たことで、僕のこの計画が親にバレた。
バレたけれど、どうせ通りっこない、テレビ局に行ったことが思い出になって終わるだろうと思った親は、電車賃を出すよりも、僕をテレビ局まで連れて行ってくれて、予選を受けさせてくれたのだった。
結果は見事に合格。それから約1ヵ月後に本番の収録があり、笑福亭松鶴師匠から「なかなか淡々とした語り口で面白わした」と言われた。「面白わした」という言い回しを聞いたことがなかったので、誉められているのかどうか正直わからなかったのだが、合格の鐘がなったのでおそらく合格したんだろう、という気持ちだった。
なにしろ、1回合格したのでは話しにならないのだ。落語コースで合格したら、今度は漫才コース。漫才コースで合格したら次はコントコース。そんな具合に3つのコースで合格して、プロに弟子入りすることが僕の目的だったのだ。収録を見に来ていた両親は、良かった良かったと喜んでいたのだが、僕は一人、「プロへの厳しい戦いが始まってしまったぜ」と意を決していたのである。
しかし、その後、何度予選を受けても僕は合格しなかった。漫才は当日、一人で参加している知らない子と組まされて渡された台本で受けたのだが、見事に落ちた。後日、受けたコントコースも何をどうすればいいのか分からないうちに終わり、これも落ちた。要するに、僕は子どもが演じる落語としてギリギリ合格したのであって、それ以外を器用にこなすような子どもではなかったのだ。
視聴率があまり良くなかったのか、この番組は半年ほどで終了。僕は落語コースで一度合格しただけの子どもとなった。しかし、世の中、上には上がいるもので、この番組でちゃんと桂春団治師匠に弟子入りした子もいるのだ。その事実が僕の最初の挫折となった。そして、いつかは自分も落語家の弟子になるのだという気持ちを強くしていくのだが、それが実際の行動となるのは4年後の中学生の時。桂米朝師匠の家に弟子入り志願に行くという暴挙に出ることになるのだった…。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在は、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師も務める。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。サイト:オフィス★イサナ
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