【エピソード32】「外国」を肌で感じたEXPO70
さてさて、聞いた話を形に残すことを仕事にしている
「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしい
エピソードをご紹介していきます。
2025年に大阪で二度目の万国博覧会が開催されます。一度目、1970年の大阪万博は、日本はもとより、アジアで初めて開かれた国際博覧会でした。1964年の東京オリンピックで勢いづいた戦後日本の経済成長のゴール地点とも言うべき「エキスポジャパン70」。月の石、人間洗濯機、電気自動車に動く歩道――「人類の進歩と調和」とはこういうことなのかと、日本中が「未来」をリアルに感じてワクワクしたものでした。実際に何度もエキスポ70を訪れたメイコさんのお話です。
●マイカーとお弁当
当時小学校6年生だったメイコさん。母親の実家が神戸にあったので、夏休みの間、祖母の家に長く滞在して、何度も万博会場に足を運びました。各国のパビリオンの展示や体験に胸を躍らせたのはもちろんですが、50年が経とうする今、むしろ懐かしく思い出すのは、万博会場でのちょっとした風景や小さなエピソードの数々なんだそうです。
「万博会場に向かうときは、母の実家に住む叔父がガイド役となってくれました。新しもの好きの叔父は、開催中それこそ数えきれないほど会場に通っていました。現地までは車です。運転手は、近くに住む別の叔父。まだマイカーのあふれていない時代でしたから、現地までの渋滞も駐車場の確保も、今ほど頭痛の種ではなかったんでしょうね」
メイコさんたちは、その家の従妹たちと一緒に連れて行ってもらいます。万博会場に出かける日の朝は、台所脇のちゃぶ台で、メイコさんの母親や叔母さんたちが、熱心におにぎりを握ります。ふつうの三角おむすびではなく、ご飯に具を詰めたものを、当時出始めたばかりのラップでくるんで巾着にして結ぶ。会場で食べるときに手が汚れないように、という工夫からでした。会場のレストランで食べるには長蛇の列を並ばなくてはいけない。一つでも多くのパビリオンを攻略するにはお弁当持参が一番。とはいえ、コンビニが世に登場するのはずっとずっと後の話。お出かけといえばお弁当持ちが、当たり前の時代でした。
● 万博の楽しみ方はいろいろ
「会場に出かけるとき、私は必ずメモ帳を持っていきました。この年の夏休みの自由研究は万博にしようと決めていたからです。でも現地に出かければ、パンフレットはもらえるし写真も撮れる。じゃあメモ帳は何で埋まっていったかと言うと…。外国人のサインなんです!」
メイコさんにとって、こんなにたくさんの外国の人たちを直に見るのは、生まれて初めて。各国のパビリオンのコンパニオンのお姉さんたちはもちろんのこと、すれ違って気さくに挨拶してくれる外国人観光客にもメモ帳を差し出す。サラサラっとサインをしてくれたら、こちらもサンキュウ!と笑顔。自分で思いついたことではなかった、とメイコさんは言います。きっと、周りにいる子どもたちもやっていたんだと思う、特別奇異な行動でもなかったんでしょうね、と。
「アメリカ館とかソ連館とか、大きなパビリオンは、並んで入るだけでもうクタクタ。なのでその合間合間に、小さなパビリオンを見て回るのがけっこう気楽で楽しかったですね。アフリカの国々のエリアに行くと、それぞれ独自のパビリオンではなくて、同じ造りをした小さな建物が並んでいるんです。〝ウガンダ〟っていう国を覚えたのもこのときでした。ウガンダ…その特徴のある響きが印象的でした。そこで売っていたおいしいコーヒーアイスクリーム(コーヒー味のアイスなんて食べたことなかったですから)と一緒に強く覚えています」
● 公式グッズは今も大切な宝物
アメリカ館の近くの売店で、叔父さんが買ってくれたキーホルダー。サングラスとマフラーをした、妙にカッコつけた犬の絵でした。数年後、中学になってピーナッツブックスにはまったメイコさんが、ふと思い出してあのときのキーホルダーを取り出してみたら、なんとそれはスヌーピーだった!
きれいに色付けされた、立体感のあるメダル。そろそろ日本でもブームになり始めたスヌーピーのキャラクターグッズとは比べ物にならないくらいゴージャスな公式グッズ。メイコさんの宝物になったのは言うまでもありません。
今のように、オンタイムで世界の情報がわかる時代ではなかった。だからこそ万博は、メイコさんにとって初めて「海外」をリアルに感じた、カルチャーショック連続の場所でした。二度目の万博。55年経って、海外旅行もネットも当たり前のこの時代、「会場で私たちは、何を見て驚くのかしら」と、いささか心配だったりもするメイコさんなのでした。
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okosama
なつかしい!EXPO’70
そうです、そうです。パビリオンのコンパニオンが初めて会った外国人でした。
あと、月の石と宇宙服とたいそうな人出だったのだけは覚えています。
外国のパビリオンと企業のパビリオンが混じっているのが、子ども心に不思議でしたが、博覧会って見本市みたいなものなんですね。と、今では理解してます。
次の万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」でしたっけ?
EXPO’70の記念切手がありましたよ^ ^
まゆぽ Post author
わわわ!
okosamaさんもいらしたんですね、EXPO70。
いいなあ。わたしはちょうど家でいろいろあって、
親が余裕のない時代だったので、
大阪まで連れて行ってもらう余裕はありませんでした。
二学期が始まると、クラスの友達が何人も万博に行っていて、
うらやましかったことを覚えています。
私たちくらいの世代にとっては、
行った人はもちろん、行けなかった人にとっても
何かしら思い出の景色がありますね、EXPO70.
切手、何となく見覚えがあります。
つながってるところがすごい!
今では値打ちものになってるんじゃないですか?
okosamaさんお宝ですねー。
匿名
ああ。。メイコさんは同級生になるのですね。
千葉の房総に住んでいた私には大阪はとっても遠いものでした。
万博、行ってみたいなあと思いつつ、同級生の中でも
出掛けてきたよという話はあまり聞かなかったかな。
お土産を貰った記憶もない。。そんな話をしたら
職場の上司(年下)は大阪生まれで幼稚園のころ親戚がくると
万博へでかけていたからしまいには飽きた、などと言うので
ちと、憎たらしく思ったものです。
EXPO70、こんな言葉がとっても「未来的」に聞こえたものです。
このころでしたか、ディスカバーJAPANなんてのもありましたね。
まゆぽ Post author
匿名さん、コメントありがとうございます。
新幹線があると言っても子どもにとっては、千葉と大阪は遠いですよね。
テレビの中の出来事感がありましたよねー。
実体験した人と、テレビで観ていた人、思い出し方が違うんでしょうね。
と、思う、匿名さんと同じテレビ派のわたくしです。
でも、あの頃の技術で月に行っちゃうって、
なんか凄くないですか!?
怖いもの知らずでしたねえ、人類は。
なんてったって「未来的」ですもん。
いまねえ
わわ。。またやってしまいました、
↑千葉育ちの匿名コメント、わたしです、
いまねえです。
最近コメントに名前を入力忘れが続いてます。
カレー(加齢)が日々刻々と、濃く煮詰まっている感があります。。
ふくっぺ
わあ、もう五十年ですか?私は九州から初めて飛行機に乗っていきました。全日空のフレンドシップ。あの昔のマークの…。それさえ新鮮で…。妹が小学館の本に紹介されていたパビリオンみどり館に行くことに。。。、事前情報なく、その映像技術に圧倒されました。
まゆぽ Post author
おお、いまねえさんでしたか。
カレーは煮詰めて、寝かせた方が絶対美味しい。
日々刻々と美味しくなっているのですね。すてき!
まゆぽ Post author
ふくっぺさん、こんにちは。
九州から飛行機! フレンドシップ!
かっこいいなあ。
わたしが初めて飛行機に乗ったのはいくつのときだろう?
みどり館、ググってしまいました。
アストロラマというすごい映像が観られたとか。
「人類の進歩と調和」だったんですねえ、しみじみ。
爽子
こんばんは〜。先週末スケッチ教室の野外スケッチで万博公園に行ってきました。
こんなに広かったのか〜〜!とため息が出るほど広かったし、少しの距離に見えてても、結構到着まで骨が折れました。
わたしが小学校五年生のときに万博があり、学校からも行きましたし、家からも何度も行きました。
御堂筋線になればまっすぐでしたのでね。
行列に並ぶのとすいてそうなパビリオンは抱き合わせでしたよね。
アブダビ館を訪れたときのことです。
わたしは、突然ふわりとお姫様抱っこされて、空中に浮いてしまいました。
あまりの驚きに声すら出せず、びっくりまなこの先は、野性味溢れるアラブ人男性
こんな不器用な子供でなければ、今頃アラブの大富豪の夫人になってた?^_^
まゆぽ Post author
やっぱりね〜、爽子さんはきっとすごくたくさん通っただろうなと思ってた。
それでも、ワイルドなアラブ系男性のお姫様抱っこは衝撃的!
可愛かったんでしょうねえ。
写真は最近の太陽の塔ですか? かなりお地味でびっくり。
岡本・芸術は爆発だ!・太郎先生はなんておっしゃるでしょう。