「寂しさ最強!」と世界の中心で叫んでみる。
これはもう誰に限らず、あるのだろう。言いたくて言いたくて仕方がないってことが。ここでは言わなくていいのに、というか、むしろ言わないほうが絶対にいいのに、言いたくて言いたくて仕方がないということは確かにある。
目の前にいる人が、本当にいい話をしているのだけれど、「それをお前がいうのか?」と思うことは多々あって、そんなとき「そう言っている●●さんは、真逆のことを僕にしてますよね」と言ってみたくなることはある。
言ってみたくはなるけれど、言うことはほとんどない。言ったら大変なことになるのはわかっているから。言わずに、はいはいと返事をしていれば、静かに時間は過ぎ、その後に予定している友人との会食にも遅れず、ざわめく心に料理の味がわからない、ということもなくなるからだ。
ところが、こういうときに、言わなくては気が収まらない、という人がいる。確実にいる。そして、その確実にいる人たちは、ほぼ毎回、言ってしまう。言ってもせんないことを言ってしまうのだ。
まあ、正直、間違っていないんだから言っても良いと思うし、万一それが間違った内容でも、本人が本音として言いたかったと言うことは、その人のなかで正直な気持ちなんだろうから、もう言っちゃえばいいじゃない、という気もする。
けれども、気になるのは、そういう人たちの中にあるのは、と全くの他人事として書くわけにはいかない気がしてきたので、言い換える。けれども、気になるのは、そういうことを言ってしまう時の僕たちの中にあるのは、自分は間違っちゃいない、という思い込みだ。それが事実であっても事実でなくても、自信をもって「間違ってない」と思うからこそ、言わなくてもいいことを言ってしまえるのだと思う。
となると、アイツと一緒だ。ほら、もう思い出すのも嫌な、あのあおり運転の馬鹿野郎。さんざん人を殴っておいて、逃げ回っておいて、捕まるときになると「自首しようとしてるんだから、通してください」と破廉恥なことを言えるアイツ。あんなに暴力的でもないし、あそこまで馬鹿だと思わないけれど、一部、アイツと同じ精神構造になっているんじゃないかと思う。
言いたいことがあるのはいいとして、言いたくて仕方がない、となったときには要注意。特に、四十代、五十代を超えた辺りから、そういう人物が増えてくるぞ、というのは最近の経験からくる感覚値だけれど、ほぼほぼ間違いないと同意を得れそうな気がする。
それは人から認められたい、という若い奴らの焦燥感にも似て、歳を重ねても重ねても後ろから追いかけてくるアニメ映画の顔なしのようだ。自分というものがなく、寂しい気持ちに満たされてしまうと、人は他人に対して「認めろよ、おれを!」という思考回路に陥ってしまうのかもしれない。
さて、解決策はあるのだろうか。きっと、あまりない気がする。人が人に優しくしたところで、寂しさは解消しない。この時代、何よりも寂しさは最強だ。すべてを凌駕するだけの強さと禍々しさがある。それに、どこぞのAIかなにかに解析されて、寂しさもない穏やかな日常をみんなが手に入れてしまったら、文学も音楽も映画も成立しない。それこそ、死に体の人生が待っていることになるような気がする。
みんな寂しいんだよ。特別な寂しさじゃないんだよ、おれ。と思うしかない。それは人を認めるということだ。自分の寂しさを認め、人の寂しさを認めて初めて、人は明るく笑えるんだと思う。
植松さんとデザイナーのヤブウチさんがラインスタンプを作りました。
ネコのマロンとは?→★
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在は、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師も務める。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。サイト:オフィス★イサナ
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Jane
定年以降の年齢の方が、昔はすごい職場にいたとか、子供はどこどこの大学を優秀なため全奨学金で出たとか、あからさまに唐突に、しかもまったくの他人に語っている場面に度々遭遇(私が聞き手にされることも)。自分が承認されることが年とともに少なくなってきて、自慢することが過去の自分か自分以外の人のことになっていく。聞く方も自慢を聞くというより寂しさを聞くといった心持ちにさせられます。「すごいさすがだ!」と盛り上げられる聞き手じゃない場合(私)、繰り返しの多い一人語りはやや不完全燃焼にぼそぼそと終わっていく。自制というタガが外れてしまうくらい寂しい、もっと進むと自制という観念すら忘れてしまう。そこへ向かって歩いているんだな。
uematsu Post author
Janeさん
その寂しさ、その切なさ。
魚も人生も、ちょっとひなびてきたくらいが
味も濃くなって面白いのかもしれませんね。
相手するのは大変だけど
さきこ
あああその寂しさ自分自身が年々感じていることです。
ああはなりたくないと思っていた老齢に自分がさしかかっている。
これをバネに文学がひねり出せればいいんでしょうけど、元から素養もないし、寂しさ力と反比例して集中力は衰える一方だし。うまくいかないもんですね。
でも寂しさ最強だと思ってると、この先の生き方はちょっと面白いですね。
uematsu Post author
さきこさん
集中力の衰えは僕も感じます。
逆に集中力さえあればなんとかなるのに、
と思うことも。
いやほんと、うまくいかないですね(笑)。
以前、名横綱と言われた関取が
「巧くなってきたと思ったら体力がなくなってきた」
と語っているのを聞いて、
なんだか切なくなったことを思い出しました。