世界には哀しみしかない。
いつもいつもではないけれど、世の中の哀しみにばかり気持ちがシンクロしてしまうことがある。交通事故で死亡した遺族が会見で泣いているのを見たり、理不尽な社会制度に生きる気力を失っている人のドキュメンタリーを見たり、カフェの隅っこの席で別れ話を切り出されて呆然としている青年を見かけたり。いやいや、同じ数だけ楽しいことも僕の身の回りでは起こっているはずだし、むしろ楽しいことのほうが多いはずなのに、気持ちが哀しみとばかりシンクロする。こんな時はどうすればいいのだろう。
僕はもう絶望的な映画を見ることにしている。あまり残虐なシーンが次から次へと迫り来るようなものは好みではない。いまの日本映画はどうしようもないくらいに幼児虐待と自傷行為と殺し合いのオンパレードだ。そんなことをしなくても絶望的な世の中なのに、むしろそういう映画や小説ばかり書いている人はお気楽なのかと思ってしまう。
最近では『マンチェスター・バイ・ザ・シー』をよく見る。子どもを火事でなくしてしまい、それが自分のせいだと攻める父親役をケイシー・アフレックが演じている。子どもを亡くしたことで、彼は妻とも別れ、生まれ故郷を離れる。数年が経ち、事情があり故郷マンチェスターに戻った彼だが、なにもかもがうまく行かない。しかし、甥っ子との交流によって、少しずつ彼は人としての立ち位置を取り戻すのである。
しかし、この映画が優れているのは最後の最後、目の前にあるであろう幸せを受け入れられないという結末を選ぶところである。そう、つまりこの映画には救いがないのだ。救いがないからこそ信じられる。そういう類いの映画だ。
世の中は哀しみばかりだ。どんなに楽天的になろうと、世の中は哀しみに包まれている。そう思ってしまうと抜け出すことができない。しかし、世の中の小説や映画の多くはお気楽に哀しい状況でストーリーを運んでおいて、最後の最後、さあ、ここに希望がある、と締めくくる。それを見た時に、僕はどうしようもなく取り残されてしまった感覚を味わってしまう。
『マンチェスター・バイ・ザ・シー』はラスト近く、主人公であるケイシー・アフレックが「やっぱり、おれには無理だ」と言い出してしまう場面がある。そこで観客は「だよね。何でもかんでも救われないよね。癒やされない哀しみってあるよね」と自分自身が肯定された気持ちになるのである。世の中は哀しみに包まれている。そして、その哀しみは癒やされることなんてない。そう言ってもらえてはじめて救われる気持ちだってある。というわけで、いまから『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を見ようと思うのである。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。現在はコピーライターと大阪ビジュアルアーツ専門学校の講師をしています。東京と大阪を行ったり来たりする生活を楽しんでいます。
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Jane
私も、もう若い時から、ラストはやっぱりだめってことになったり、結論が出ないままに終わる映画が好きですよ。だって、現実はそんなにうまくいきっこないもん!ほんのひととき夢を見て、現実に戻っていくんですよね….。だからこそ、そのひとときは輝いている。
uematsu Post author
Janeさん
見事なハッピーエンドも見たくなるんですけどね、たまに。
どっちにしても、いろんな見方をさせてくれると幸せになります。