いくつになっても折り合いはつかない。ブラボー!葛藤と孤独。
こんにちは、カリーナです。
日記にもいろいろあり、ウェブ上のこういう文章も、それに含まれるかもしれません。でも、やはり手書きの日記には、力がある。いや、日記というより、どこかに書きつけられた文章。それには見つけた人の心を動かす独特の力があります。
たとえば、途中から白紙になっている日記帳の最初のほう、家計簿の空欄に書き込まれた覚書、チラシの裏に殴り書きされた感情的な言葉など…。
誰かの、そういう文章を何かのきっかけで目にすると、自分には見せなかった一面にドキリとし、その湿った叫びが、性的な息づかいまで露わにするようで居心地の悪いような、ちょっと淫靡なような気がするのです。秘密を知ることそのものが、きっと淫靡なんでしょう。
亡くなった母が、まだしっかりしていたころに亡父に向けて書いた文章を見たときもそうでした。「お父さん」から始まる寂しさを訴える文章でした。
ああ、人は、一人のときの寂しさを決して口にせず、生きて死ぬのだと痛感しました。
人生は、一人の人間が生まれてから今日までに出会ってきた人たち…父母、兄弟姉妹、友だち、片恋だった人、両想いだった人、慕った人、疎んじた人、衝突した人…そんなあらゆる人々との出会いによって構成されている。その出会いと体験から成る人生の全貌を知っているのは自分ただ一人だけなのです。
それゆえの絶対的な孤独。
それを「母」という、一面だけをよく知っている年長の女性から告げられたように思いました。
誰かの書いた、公開を前提としない文章を読むと、どこか、拒絶されたような気がします。わたしは、その人の人生から締め出されている。ずっと締め出されたままだったと知らされる感じ。
それもまた絶対的な孤独。絶対に縮められない人と人との距離です。
先日、ベストセラーになっている「102歳 一人暮らし」の石井哲代さんも、取材記者が本棚の仏教本を何気なくめくっていると表紙の裏にびっしりと文字が並んでいるのを発見したと書かれてしました。それは、哲代さんが99歳のときに書いた文章でした。
「石井のご先祖様、すみませんでした。
良英さん、すみませんでした。
まことにすみません」
子どもを産まなかったことが謝罪の主な理由かもしれません。でも、もっと、深く広がる、生き残ったものの死者への申し訳なさのようにも受け取れます。
いくつになっても、99歳になっても、きっと102歳になっても、折り合いのつかない葛藤を抱えている。それが人生。生きているということ。
ブラボー。葛藤と孤独。
アメちゃん
カリーナさん。こんにちわ。
父が亡くなって4年一人暮らしをしてた母が
(兄の住む)東京の介護施設に先月末に入所しました。
軽度の認知症だったので、姉が「デイケアの日」とか予定をメモに書いて
こたつの机の上に置いてたんですけど
本人も物忘れが激しくなってるのを自覚してたのか、
自分でも、今日あったことや明日の予定、自分の誕生日や年齢まで
メモに書いてたんですよ。
「シルバー人材草とり。お茶を買いに行ったら2人帰る後ろ姿を見た」
みたいな感じで。。
そんなメモがたくさん残ってて、先日それを持って帰ってきたんですけど
母は一人で、自分が色々忘れていくのをどう感じてたんだろう・・
と思うと辛くて、改めてメモを見ることができないでいます。
カリーナ Post author
アメちゃんさん
わああ。お母様、ご自身のことをよくわかってらしたんですね。
うちの母もそうでした。
だからこそ、認知症が本当にひどくなる前のメモは、
見るのがつらいし、切ないです。
母という一人の人が、懸命に自省的に生きた息遣いが伝わりますよね。
施設に入られたのですね。
よかった。安心して穏やかに過ごせますように。
メモ、大切なのに見られない気持ち、よくわかります。