時間をかけて理解を深めるとき「沈黙」の役割は大きい。
ずっと前のことですがツイッターで私のつぶやきに、どなたかが楽しいリプライをしてくださいました。「あ、初めての人だな!うれしいな」と思ったのですが、それに気づいたのが夜遅くで、お風呂上りで眠かったので、そのまま寝ちゃったのです。で、朝、画面を開いてみたら、そのツイートは消えていました。その方が削除されたのです。
あちゃー。悪いことしたなあ。
と思いました。でも、どこのどなたなのか、まったくわからない。アカウントの記憶もまったく残っていないので「朝になって、返信しようと思っていたのですよ~!」と伝えることもできない。こういうことはツイッターではよくあることだと思いますが、でも、「相手の沈黙を拒否ととらえる」と、ネット上のコミュニケーションでは、ひどく消耗します。その感覚は、私もすごくわかるし、気になることもあるけど、やっぱり消耗しちゃうから、あんまり意味がないと思うのです。だから、「そのままにして様子をみる」とか「とりあえずスルー」したほうがいい。これもまた、できれば身につけておいたほうが、いろいろと楽になる「耐性」のひとつなんじゃないかなと思うのです。
この「別冊」もメーリングリストでいろいろ連絡を取りあっています。すぐにだれかが返信を送る場合もあれば、ずーっと誰も返信しないまま時が過ぎることもあります。その「沈黙」の向こう側には、「外出・不在」や「多忙」や「食事」「昼寝・就寝」「レジャー」「芸術鑑賞」などの理由のほかに、「もう少し、ほかの人の出方を見たほうがいいのではないか」「この返信は、あまりにも早すぎるのではないか」「え?このメールの意味がいまいちわからんぞ」といった、もろもろの理由が錯綜しているに違いありません(笑)
やはり、「沈黙」は雄弁なのかもしれません。
でも、「拒否」とは限らない。
「拒否」の気配が濃厚になったら、静かに撤退する。
活発でスムーズなやりとりだけでテキパキと物事が進むのは、気持ちいいけれど、
それが全員体制で進んでいたとしたら、気持ちいいのは、実は、自分だけかもしれません。
ゆっくりと、焦らず、関係を育てていくには、
実は、「沈黙」の扱いが胆なのかもしれないなあと思うのです。
何かを働きかけた側は、「沈黙」の向こうを想像しながら、「拒否」ととらえず、少し待ったり、
別の方法でもう一度働きかけて様子をみたりする、とか。
ひとりでブログを更新する毎日に加えて複数の人々と「別冊」をつくる毎日へ。
自分のスタイルをちょびっと変えた理由も、ここにあったのかもなあと。
そういえば、昨日、神戸の友人宅にJRに乗って出かけたのですが、4人掛けの座席で、前に座った片方の女性(60代後半か)が、「わたし、いつも思うの。この電車の窓から見える家の全部に家庭があるんやね。全部よ、全部。車で山奥行っても家があるでしょ。そこにも家庭がある。すごいね。どの家も、いいことばかり起きているわけじゃないよね」と言っていました。もう、思わず、その人の手を握って「そうですね!」と言いたかったな(笑)。
それぞれの家、それぞれの人に、それぞれの事情、それぞれの家族、それぞれの考え。
それぞれの言葉とそれぞれの沈黙。
わたしだって、わたし以外から見れば、いーっぱい沈黙しているんだろうなと思います。
相手の沈黙には過敏になっても、自分の沈黙には意外に気づかないんですよね。
by カリーナ