エピソード5★雇均法以前のOL物語。
先日の「オバフォー祭り」、さわりだけ参加させていただきました。ほぼ初対面の皆さまの中、人見知りのわたくしは足がすくんでいましたが、話しかけていただき、温かい言葉をいただき、楽しいお話を聞かせていただき、ああもっとここにいたい、と心から思いました。もう一度機会があったら、もっともっとあれもこれも…と夢見ています。楽しい時間、ありがとうございました。
さてさて、聞いた話を形に残すことを仕事にしている「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしいエピソードをご紹介していきます。
【エピソード 5】
今回はオバフォーのお姉さん世代のお話。
女子の就職と言えば2、3年アシスタント的に働いて、
結婚退職というのがまだまだ当たり前の時代でした。
そんな環境の中でも仕事に夢を持ち続けた郁子さんの入社当時のエピソードです。
1978年、来春4年制大学を卒業予定の郁子さんは、音楽と映像をつくることに携わる仕事をするという夢を実現すべく、就職活動に励みました。当時は、多くの大企業が短大卒の女性を男子社員の花嫁候補として採用していたような時代。4大卒女子の男性と同じ職種での採用はかなり狭き門でした。
それでも郁子さんは頑張りました。あるCM制作会社の社長に「御社に入って制作ディレクターとして仕事をしたい」という気持ちを切々と訴える手紙を送り、見事、4大卒女子として初めての採用を勝ち取ったのです。
将来の夢で胸を膨らませて入社した郁子さん。しかし、配属されたのは秘書課でした。当時、女性にとっては花形の職場でしたが、郁子さんは大ショック。それでも、ここで負けるわけにはいきません。与えられた専務秘書の業務を懸命に務めたそうです。ちなみに、専務は50代のやり手でダンディで人望のある方でしたから、他の女子社員からは羨ましがられる職場ではありました。
バブル時代のOLを描いた漫画家・中尊寺ゆっこさんは
1987年に新人賞を獲得して漫画家デビューしました。
ある日、専務から「ちょっと来てくれる」と呼ばれた郁子さん。専務室に入ると、専務がおもむろにワイシャツとその下の肌着を脱ぎ出します。……?!
背中がかゆいんだよねぇ。掻いてくれる?
22歳の郁子さん、とっさに前のビルとの間の窓のカーテンを閉めていたそうです。自分でも何を考えたのかわからない。たぶん、前のビルの人から見られてはいけないことだ、ととっさに判断したのでしょう。
呆然としながら、シミの目立つ見慣れない中年の背中に、震える右手の人差し指を近づけてみましたが…、ど、どうしても触れない。触れる寸前で郁子さんは「ちょっとお待ちください!」とダッシュで部屋を飛び出します。秘書室の救急箱からガーゼとメンソレータムを取り出し、ダッシュで戻り、「指で掻いてお背中に傷ができるといけませんので」と言いながら、メンソレータムを塗り込んだガーゼを背中に貼り付け、専務が言葉を発する前に素早く退室したそうです。
その後、専務はかゆみがおさまらなかったらしく、壁の非常ベルの赤いランプに背中をこすりつけていたとか。その姿を見た郁子さんは、「ああ、申し訳なかった…」と思ってしまい、その日の帰宅途中、デパートで孫の手を買って、翌日専務にプレゼントしたといいます。
専務はその後、その孫の手を愛用してくださり、背中を掻くために郁子さんが呼ばれることは二度とありませんでした。
「男女雇用機会均等法」が施行されたのは1986年のこと。これは、それ以前の、セクハラという言葉も女性活用もダイバーシティもなかった時代の女子社員のお話でした。
ちなみに、郁子さんはその数年後、希望通り制作ディレクターの仕事に就き、辣腕を振るって長くその会社で活躍しました。
- 写真/佐藤穂高(広島在住のプロカメラマンです)
- 有限会社シリトリアのHPはこちらから★月亭つまみとまゆぽのブログ→「チチカカ湖でひと泳ぎ
★ついでにまゆぽの参加している読書会のブログ→「おもしろ本棚」よりみち編
nao
私も均等法以前、農学部の4大卒の女子なんて就職口なんかありませんでした。
今の方がいいかどうかは思うところもありますが
思い返せば前近代的というか、寿退職が当たり前だった時代ってついこないだだったんだなー。
まゆぽ Post author
naoさん、コメントありがとうございます。
今なら大人気のリケ女なのにね。
左手薬指に指輪をキラキラさせて退職の挨拶まわりが
女の花道、みたいな会社もあったと聞きます。
うん、私もつい最近な気がします。