【エピソード20】私の昭和20年
さてさて、聞いた話を形に残すことを仕事にしている「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしいエピソードをご紹介していきます。
【エピソード20】
今回は聞いてまとめたお話ではなく、ご自身で書かれた文章をこのコーナーのためにちょっとリライトさせていただきました。73年前、3月の東京大空襲に続く5月の空襲を千駄ヶ谷で経験したチカさんが語ります。
・3月東京大空襲、そして5月
昭和20年の年が明けて間もなく、家の前の大通りをガタガタと馬車の長い列が続き、人の噂では千駄ヶ谷駅前の徳川家が疎開されるとか、その列は日がな一日続いた。
それまでに東京の空襲は何回かあったが、3月9日の夜の大空襲は本格的で、空襲警報と同時に下町方面の空が真っ赤に染まり、私の家からはかなり距離があるのに凄い音が伝わってきた。遠くに見える屋根屋根が赤い空をバックに影絵のようにはっきり映し出されて見えた。翌朝大勢の罹災した人達が、家の前の通りを列をなして何処へ行くのか、さしたる荷物もなく茫然と歩いていた。
それから何日もせずに、我が家も強制疎開(類焼を避けるため、家屋を壊し広い道路を確保)の通知を受け、考えもまとまらないうちに、町の警防団の人達がやって来て大きなハンマー、太いロープで埃を舞い上げながら次々と家を壊していく。
やむをえず近くの長姉夫婦(姉は幼児と、義兄の新潟の実家へ疎開)の家へ移り住み、新婚早々の次姉夫婦、他の地で罹災した親類も同居するようになり、空襲のない夜はお風呂の順番を譲ったり、今日は珍しいものが手に入ったと得意になったりして、雑居生活の賑わいを結構楽しんでいた。食べ物も楽ではないが未だ深刻というほどでもなかったし、皆一緒に耐えている時代で、自分達だけは絶対大丈夫と信じていたと思う。その年4月に入り、昼夜の別なく空襲はあったが、不安ながらも、私はけっこう遠くまで電車で通学をしていた。
・火の海を裸足で逃げた
5月23日夜の大空襲に続く25日の夜、「今夜は危ないぞ、気をつけてかかれ」と庭の二つの防空壕に土をたっぷりかけ地固めをしていた父は、間もなく警防団としてかり出されていった。祖母と母と私は近くの松岡洋右邸の地下室へ隣組の人達と早めに避難した。防空頭巾を深く被り誰が誰やらわからず、身を寄せあって地上の様子をうかがっていた。祖母はひたすら念仏を唱えている。母は嫁として何かと祖母を庇っていた。
その時、爆風で重い扉があき、「ここにいると死ぬぞ。早く出ろ!」と男の人の叫ぶ声がした。地上へ出ると辺りは物凄い火の海で、熱風の中、焼けたトタンがよじれながら飛んでくる。その時、肩の高さに炎が見えた。履いていた革靴に焼夷弾の油がつき燃え上がっていたのだ。慌てて靴を脱ぎ靴下のまま熱い地面を走った。
昭和20年東京大空襲の被災樹木サイトより
凄い数の照明弾が辺りを照らしながら降ってくる。まさに何万燭光の明るさだ。我が家の方を振りかえると、煙の中に火を吹く柱だけが目に入った。悲しいとか、恐ろしいとか思う余裕はなく、3人で手をつなぐのが精一杯であった。
火の粉の中、近くの鳩森八幡神社の植え込みを縫うように鳥居まで来ると、大銀杏の下で、消防車がホースで避難してくる人達に頭からずぶ濡れになるほど水を掛けてくれる。防火用水槽に浸る人もいた。
広い交差点に出ると、大きな竜巻が起こり押し出されるように身体が浮いた。
男の人が大声で「荷物は持つな。震災の時、荷物についた火で沢山の人が死んだんだぞ」と怒鳴っていた。空にはサーチライトの光線が右に左にと交叉し、高射砲の音が空しく響いている。
千駄ヶ谷駅前では道幅いっぱいに火の粉の風が吹き抜け、顔にチクチクと刺さり呼吸も苦しかった。どうすることもできずに幣原喜重郎元首相邸の大きな門扉の側に腰をおろした。
八十歳の祖母が「もう死んでもいい」と座り込み、母もおろおろしている。今でもはっきり憶えているが、14歳の私が二人を守らなくてはと奮起し、駅前から夢中で明治神宮外苑に向かった。
・翌朝、焼けた家に戻ると
ようやく火の粉から逃れ、励ましたり、なだめたりしてどうにか神宮外苑プールに辿りついた時、気が弛み床に座り込んでしまった。その場に詰めていた兵隊さんがバケツにいっぱいの水を持って来てくれたので、早速三人で顔を洗い、手足を浸してひと息ついた。濡らしたはずの衣服も火の粉の中を抜けて、からからに乾いていた。その場に家族が固まって、眠れない夜を過ごした。
夜明けを待って火も鎮まってきた様子なので皆それぞれ家に戻り始めた。コンクリートの道路が裂け、物が飛び散る中を鳩森八幡神社まで戻ると、男女の性別もつかない二遺体が白くパンパンに膨らみ、まるでデパートのマネキン人形が寝かされているように倒れていた。太陽は月食のようなかつて見たことのない色をしている。
すっかり焼けてしまった家の跡から次姉が私達を見つけ飛んできて、生きていた喜びにしばらく抱き合って泣いた。台所の蛇口はくねり、ふたのないお釜は黒こげに歪み、風呂桶はテッポウ釜が放り出され、桶のたがは輪投げのようにその場に重なっていた。座敷の跡では、ガラスがすっかり溶け金属の部分が絡まっている愛用の時計が妙に悲しかった。
熱気の冷めるのを待って父が防空壕の扉を開けると、熱風が入ったらしく、お米はまるで玄米のような色でいぶ臭く食べられたものではない。大事にしていた和服は畳んだまま折山が焦げ、手布巾サイズに切れてしまっている。何もかも焼けつくされ、思考力もなく、ただ立ちつくす私であった。
近所の出征していた青年がたまたま外泊を許されて自宅に戻った夜、この空襲に合い、焼夷弾の直撃を受けて即死したと聞かされた。
何も力を持たない庶民が押し流された末がこれでは、あまりにも悲しい。そしてこの後の3年間は、食糧難、住宅難という大変な戦いが待っていたのである。
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