【エピソード35】ヤマノ家のファミリーヒストリー
さてさて、聞いた話を形に残すことを仕事にしている
「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしい
エピソードをご紹介していきます。
今回は神奈川県と三重県にルーツを持つ60代のヤマノゴロウさんのファミリーヒストリーをお届けします。戦争を含めて、昭和の時代をヤマノ家の皆さんがどう生き抜いてきたか、ゴロウさんが祖父母、父母から聞いた話をまとめてくれました。
● メキシコで血筋について考えた
1991年にメキシコの会社に赴任して名刺を作った時、「GORO YAMANO HIRATA」と書き入れた。
メキシコでは氏名は「名前・父方姓・母方姓」の順に記載する。出自と血統を明確にし、私生児でないことを証明するためだという。また、メキシコの納税番号は、3文字の氏名のイニシャル(わたしの場合はGYH)と生年月日で設定される。
余談ではあるが、メキシコで死んでしまうと、父母、祖父母、曾祖父母の氏名をすべて役所に届け出ないと遺体を本国に送還できないそうだ。
実際に、メキシコの日系企業の方から次のような話を聞いた。その会社の方が交通事故で亡くなり、遺体を日本に帰還させる際に、役所から曾祖父母までの氏名を求められたので、現地人弁護士が機転を利かして適当な氏名を書き入れてくれた。おかげで遺体を無事日本に帰還させることができた、と。
これを自分に当てはめてみると、父方の祖父の名前はわかるが祖母の名前はわからない。母方は祖父母までは名前、旧姓ともにわかるものの、曾祖父母になるとどちらも皆目わからない状態である。
●父の兵役と、父母の結婚
父は次男だったが、神奈川県横須賀市の商業学校を出て大阪で丁稚奉公し、その後、祖父の会社「横須賀丸十魚市場」に勤めた。
一回目の兵役は昭和12年上海事変の時で、二回目の兵役は昭和18年支那派遣軍(中部支那)に従軍、21年に復員した。位は陸軍伍長(衛生兵)。詳しくは聞いていないが、白衣を着て顕微鏡をのぞいている写真を見たことがある。 戦闘が激しくなると傷病兵の対応、死体処理が連日続いたそうだ。挙句の果てに、本人もマラリアに感染したが、国民党蒋介石のおかげで運よく帰国できた。しかしこのマラリアは一生父に取り付き、しばしば発作に襲われていた。
母に聞いた。なぜ父のところに嫁に来たのか? 魚の卸業なら食べるのに困らないだろうと思ったという。それには昭和4年から始まる世界恐慌が影響している。
母方の祖父は三重県松坂市で材木問屋が出資した銀行をやっていた。ところが昭和初めの不景気により銀行は倒産、松坂の家屋敷を売り払い、東京に移った。
日本橋人形町で化粧品店を開業し、資生堂の特約店になってどうにか生計を立てた。そんな祖父は食料を取り扱う家業ならば食うに困らないだろうと思い、父の姉の紹介で横須賀の父と見合いをさせたそうである。
祖父は明治44年早稲田大学(商科)を卒業し、明治火災保険に就職した。 会社勤めを続けていれば違った人生があったのかもしれない。
●父と母と子どもたち
母は、昭和17年に父と結婚し横須賀で暮らし始めた。翌年春、父に赤紙が届いた。出征する父を見送り、6月に長兄を出産。東京の実家に戻り、空襲が激しくなると三重県の桑名に疎開した。
そこでも空襲に遭い、兄を背負って防空壕に逃げ込んだそうだ。皮肉なことに横須賀は空襲を受けなかった。
戦争が終わり父が復員したとき、長兄は3歳になっていたが、しばらく父には懐かなかったそうだ。
父の魚卸業のおかげで戦後の食糧難には遭わず、祖父の目論見は当たった。子どもは5人生まれた。次姉は生後まもなく亡くなったが、今日まで4人は元気に生きている。食べ物に困らなかったおかげかな!?
父が死んでもう47年、母が死んでから27年がたってしまった。やはり、こういう話は直接父や母からもう一度ちゃんと聞いてみたかったと思う。お墓に参って聞いてみるかな!?
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