僕が十代の頃に映画のあれやこれやを教えてくれた、いわば師匠のような存在の人がいる。師匠と聞いてみなさんがイメージするような人ではない。映画については詳しいけれど、落ち着きがなく、ドキュメンタリー番組で取り上げられるような、どっしり構えているような「師匠」とはまるで違う。
そんな師匠から距離を置き、再び言葉を交わすようになってから数年といったところなのだが、近頃、師匠のような人がよく言うことがある。それは、「説明しすぎないほうが映画らしい」ということだ。この物言いはとても難しくて、わからなければ意味ありげに見えていい、という意味ではない。
ただ、昨今の映画を見ていると、どうにも会話でも動きでも場面展開でも説明が過ぎて、見ているこっちが「もしかしたら、俺はそこまで説明されなければわからないバカなのか」と思ってしまう。おそらく、師匠らしき人はそのあたりのことを言っているのだと思う。
しかし、そのあたりはわかった上で、僕は個人的に説明しすぎることなく「話しすぎる」映画が好きだ。意味もないたわいもないことを話し続けている映画を見ていると、気持ちがほぐれてきたり、また心臓をつかまれたように緊張したりする。そして、時々、「話すことが生きることなのか」という気持ちになることさえある。
もちろん、ただ黙って、人と人が見つめ合う映画だって大好きだし、そこに人生の真実がある、とそのときは思ったりするのだけれど、ただ、そんなときにも人はいらぬことを言い、相手を思いやるつもりで思い切り傷つけたりしてしまうのだろうな、と思うと、やはり人は言葉で生きている、という真実に突き当たるような気がする。
どんな不条理な映画も、それを構成しているのは言葉だし、言葉のない映画にしても、なんらかの言葉をイメージさせるからこそ成立しているのだと僕は思っているふしがある。
自分のつくりたいものをきちんと言葉で話せない作り手には未来はない。と、かつて師匠らしき人は言ったのだが、それはその通りだと思う。自分の作りたい世界を端的に説明できない作り手に未来はない。たくさん話をして、わかってもらおうと必死になれる人、という意味ではない。
自分の作りたい世界をしっかりと見据えて、一言で、自分がこれから作ろうとする世界を言いあらわすことができる。そこまで煮詰めてから、改めて世界を広げていくことが大切なのだろうと、今だから思えるのだが、当時、師匠らしき人の言葉を聞いたときには、「なにを言っているのだこの人は」と正直思ったものだった。
今になって思うのは、あの時、理解できなくてもそんな言葉の数々を僕に投げかけてくれる人たちがたくさんいたことの有り難さだ。そのときわからなくても、今になって突然わかることがたくさんある。本当にありがたいことだと思う。
ありがたいと思えるからこそ、たまには師匠らしきに人に優しくしてあげようと、「新しい映画を撮らないんですか」と聞いてみたりする。すると「撮るよ!」と威勢のいい返事が返ってくる。「おお、どんな映画ですか」と質問すると「う〜ん、説明しにくい」って……。
この師匠らしき人の言葉が新たな地平への旅立ちを意味するのかどうなのか、それとも、もしかしたら……。このあたりの判断は、しばし待ちたいと思う。う〜ん、これから作ろうとする世界を端的に話してくれないというところに、師匠らしき人の「らしき」たる所以があるんでしょうな。