「沈黙 サイレンス」をスコセッシが撮った理由。
遠藤周作が書いた『沈黙』をマーティン・スコセッシが映画化する。このニュースは篠田正浩監督によって一度映画化されたけれど、その出来映えが遠く小説のインパクトに及ばなかったことを知っている者にとっては、かなり大きな衝撃だった。
このニュースを聞き、配役を知ったときに、「これは、篠田版よりも確実に完成度が高くなってしまう」という妙な緊張感もあった。
個人的には、『タクシードライバー』や『レイジング・ブル』、そして、『ケープ・フィアー』などをずっと見てきて、そのたびにスコセッシの中には、神はどこにいるのか的な問いかけがあるような気がしていたのだった。それが直接的にキリストを描いた『最後の誘惑』ではっきりと確信に変わった。
近年、娯楽大作的な映画や、いかにもハリウッド的な作品も数多く撮っているスコセッシだけれど、神についての映画は遠藤周作の『沈黙』でけりをつけてやる、という気持ちなのではないかと思い込んできたのだった。
果たして、そんなスコセッシ最新作『沈黙 サイレンス』を見て、その思いをさらに強くした。原作のテーマである、なぜ、弱き者の窮地に神は沈黙しているのか、問いかけをそれこそ寡黙に執拗に、スコセッシは丹念に描いていく。
おそらく、宗教の弾圧という出来事は、世界中にあったであろうと勉強不足の僕にも推測できる。実際に宗教の絡んだ戦争は実に多い。そんな中、スコセッシが神をテーマとした映画を撮るときに、日本を舞台に据えたことには大きな意味があったのだと思う。
島国であるが故に、その時代まで他の宗教がなかなか入り込まなかったという地理的な要因。そして、日本人独自の性質のようなものがあり、新らたな宗教に真摯に向き合ってしまうが故の畏れ。そんなものが相まって、映画の中盤から、「日本を舞台にした小説を映画化している」という感覚がなくなり、「スコセッシが神、信仰をテーマとした映画を撮るのなら、舞台は日本でなければならなかったのだ」とまで思えるようになってしまったのだった。
満ち潮で徐々に高く迫ってくる波間に揺れながら、賛美歌を歌う塚本晋也は、その風貌を越えて、日本人のあり方の美しさまで感じさせてくれるのだった。
答えの出ない問いかけは、時間をかけて新たな問いを生み、新たな問いを孕みながら、一つの答えと同時にまた次の問いを生んでいく。『沈黙』という映画はその過程を実に見事に、明快に映し出してくれる。雪山に迷い込んでしまった山岳隊を描くような、どうしようもない途方に暮れた時間を共有しなければならないのか、という気持ちで見始めたのだが、それが全くの的外れであることは、すぐにわかる。
スコセッシは、すぐに答えの出ない問いかけにも関わらず、端的に碁石を置いていく棋士のように展開を進めていくのだ。その中で、日本人の俳優たちは精一杯できうる限りの冒険と苦悩を見せる。
確かに重いテーマを描いた映画ではあるが、そんな中にでも、スコセッシはユーモアを置こうとする、その結果が凄惨な者であったとしても、その時その時を必死で生きるということは、哀れな可笑しみを内包してしまうのだと言わんばかりだ。そこに、『タクシードライバー』などの狂気に包まれた初期の映画に通じるスコセッシらしさを感じてしまう。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、神楽坂にあるオフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。
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