よく泣く子どもだった。
東京メトロの飯田橋駅から南北線に乗っていると、車内で小学校の低学年くらいの男の子が泣き出した。どうやら、母親に叱られているらしい。十分ほど乗っていたのだが、その間、ずっとメソメソと泣いている。
この子の泣き方を見ていて自分の子どもの頃を思い出す。僕はよく泣く子どもだった。父親が怖かったということもあるが、とりあえず叱られれば泣いてしのごうとしていた。まあ、泣くことで相手の怒りが静まるのを待つのである。
時には、明らかに自分が悪いことをしているときもある。そんなときは泣くことで自分の悪さをなんとなくごまかすという効力が発揮できることもあるのである。
しかし、泣き続けるというのは難しい。そもそも、本気で泣いているのは最初のうちだけで、途中から嘘泣きになるということなので、簡単なわけがないのである。
だいたい、叱られて泣き始めると、途中から大人との根比べになる。相手が折れて「もう、泣くな」と言ってくれればいいのだが、僕が泣くことに慣れている父などは、笑いながら「泣け泣け」などと言うのである。そうなると、こっちは「本気で泣いているのだ。その証拠に泣き止まないだろう」という心持ちになり、さらに必死で泣き続けることになる。
さて、そうは言っても泣き続けるのは難しい。僕はあるとき、泣き続けるこつを覚えた。大事なのは最初、本当に泣けている時に、「半分だけ泣くんだ」と自分に言い聞かせるのだ。本気で大声で泣いては保たない。なので、半分だけ泣く。半分だけ泣いているつもりになるのだ。そうすると、涙が半分になり、鳴き声も小さくなる。そして、涙を温存しながらメソメソと泣くのである。
後は、涙が途切れそうになった時に、相手からきっと許されないだろう、と想像するのである。これはなかなかに効く。たとえば、父親に叱られ、泣いてしまい、その父の怒りを静めるために泣くわけだが、泣きつつ、「僕はもうきっと父に一生許されないかもしれない」と想像するのだ。この自己矛盾。許してください、と思いながら、許されないだろうと思い泣くのである。
こんなややこしい子どもだったので、大人になったいまでも、子どもが泣いているのを見ても、そこに純粋さなんて感じない。泣き顔の中に小賢しさを見てしまったりするのである。
最近、記者会見などで大人がよく泣く。セクハラした政治家や何かをしでかした会社経営者なんかが、いろいろ言い訳しながら泣く。そんな泣く大人を見ると、子どものころの自分の小賢しさを思い出して鼻白んでしまう。
大人になるということは、汚れていくことだ、という説もあるがもしかしたら反対なのかもしれない。歳を経るにしたがって、自分の中の小賢しさを飼い慣らし、できる限り正々堂々と生きていけるように努力する。そうすることで簡単には泣かないようになる。それが大人だとしたら、ちゃんとした大人はたいしたもんだと思う。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、神楽坂にあるオフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。
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