交差点の向こうから力が押し寄せてくる。
渋谷のスクランブル交差点はいまの日本を象徴する場所だと思う。
じりじりと照りつける陽射しに汗も乾いてしまいそうな昼日中。信号が変わる瞬間を、歩道を埋め尽くしてしまいそうな人々がじっと待っている。
ふいに、ああ、力だなあ、と思う。それぞれに力を持った人々が、じっと待っているのだと思う。そして、怖くなる。だって、それぞれに力を持っているんだから。しかも、それぞれにその力の大きさが違い、思惑が違い、目的が違う。そんな力が、スクランブル交差点の周囲を埋め尽くして、じっと待っている。
やがて、時が来ると、まるでそんな人々をコロシアムのなかに投入するのを楽しむかのように、信号が一斉に青に変わる。変わる寸前で走り出す人がいる。ゆっくりと周囲を見ながら歩き出す人がいる。スマホを見ながら立ち止まったままの人がいる。
こういう風景を眺めていると、ついつい内省的になったり、メタファーとして見つめたりしてしまう。
なんだか、いつの間にか、「これが東京なんだ!」と日本は声高に言うような国になっている気がしてならない。最近は、そう思うことが多い。
これが東京なんだ。そして、この東京を中心とした日本なんだ。すごいだろ。
アニメでいいじゃないか。力の数でいいじゃないか。マンガでいいじゃないか。もう、純文学とか、高尚な音楽とか、そういうことじゃなくて、そういうところから産み落とされたサブカルチャーでいいじゃないか。それが今の日本だし、今の日本の推進力になるんだよ。どうだい、世界!
渋谷のスクランブル交差点を中心に渦を巻くように生み出されている人と人との薄っぺらな、でもリアルな関係は、決して深まることなく互いを傷つけ合い、すれ違っていく。もちろん、それは僕が勝手に思い起こしているイメージだし、そういうお前はどうなんだ、と自分でも思っている。
ただ、そう思ってしまうのだから仕方がない、という気持ちと、そう思わせる何かが、きっとどこかにあるのだ、という確信めいたものがある。
真正面からぶつかり合いたくない、けれどもすれ違うくらいの関係はほしい。所詮、そんなSNSもどきの文化が、強大な力となっているのだと日々感じている。
そして、今の日本は、「それでいい」と国民の代表である首相までが言い放つ国になってしまっているような気がしてならない。
いや、日本だけじゃない気がする。トランプだって、プーチンだって、力でいいじゃないか、と言っている。そして、スクランブル交差点に突入する機会をうかがっているのか、もうスクランブル交差点で組んずほぐれつなのか。
とりあえず、渋谷のスクランブル交差点に佇むときには、胸を張って、ちゃんと顔をあげて前を見てみようと思う。
植松さんとデザイナーのヤブウチさんがラインスタンプを作りました。
ネコのマロンとは?→★
「ネコのマロン」販売サイト
https://store.line.me/stickershop/product/1150262/ja
クリエイターズスタンプのところで、検索した方がはやいかも。
そして、こちらが「ネコのマロン、参院選に立つ。」のサイト
http://www.isana-ad.com/maron/pc/
植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、神楽坂にあるオフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。
★これまでの植松さんの記事は、こちらからどうぞ。
つまみ
スクランブル交差点、特に渋谷のそれを俯瞰した気持ちで眺めると、なんだか底なし沼に吸い込まれるような気持ちになることがあります。
あんなに、あっちもこっちもから人が行き交うのに、基本的にはぶつからないって、考えてみると不気味。
ぶつかりたくないけれど、人を近くに感じたい、が渦巻いてできた偏屈な力が、なんだかどんどん気色悪い方向に行っているようで、それが唯一、肉眼で見えるのがスクランブル交差点だったりして。
もちろん、自分もその渦中にいるわけで、泳げないくせに、人が多いことと、底が抜けていることに気づかないせいで、今は溺れていないだけ、のようにも思います。
いや、溺れていること自体に気づいてないだけかも。
そもそも、スクランブル交差点なんか、この世に1個も実在してないのかも…なんちって。
uematsu Post author
存在してなかったら、むっちゃ怖いっ。
でも、時々そんな気持ちになることがありますよね。
いやもう、生きてるのが怖い。