不安で不安でたまらない。
不安について書こうと思ったのだけれど、それは僕がものすごく不安を感じているからだ。もともと心配性だし、内向的なので、若い頃から常に不安と一緒に過ごしてきた気がする。何かをするときにもいつも「最悪、こんなことになるかもしれん」ということを考えてしまう。
考えてもしかたがない、ということくらいはわかっている。わかっているけれども、心配してしまうのだから仕方がない。
スマホで新幹線の座席指定をして、いざ乗ろうとする前に、もう一度自分の座席を確認して、隣の席に人が来るかどうかを確認する。そして、隣がいなければ「ああ、広々と座れる」と喜び、隣が埋まっていると「ああ、汗だくで匂いのきつい太ったサラリーマンじゃなきゃいいけどなあ」と嘆く。で、そんなことを考えていると、たいがい汗っかきのサラリーマンが隣に座る。
だからといって、これは病気なのかというと、そこまではいかない。不安だからといって、電車に乗らないわけでもないし、乗れば乗ったで、それなりに景色を楽しみ、時には隣に座ったお婆さんと話し込んだりもする。ただ、なんとなく「こうなったらどうしよう」という小さな不安に日々さいなまれている、という感じだろうか。
この感覚のいいところは、何かあっても「ほらね」と最悪の事態でなかったことを喜ぶことができる。悪いところは、いつもいつも気楽に笑ってはいられない、というところだろうか。
しかし、五十代の半ばになっても、こんなふうだとは正直思わなかった。思春期の頃、自分はどうしてこんなにも心配性なのか、と考え込み、きっとこれは大人になるための階段なのだと思っていた。いま、こんなにもいろんなことを心配しているのは、それを乗り越えて笑って暮らせる大人になるためだ、と。
勘違いだった。よくよく周りを見れば、笑ってる人たちは学生の頃から笑っていたのだった。そして、僕はと言えば、五十代の半ばになっても心配性なのである。
そんな僕にできることと言えば、そんな心配性の人たち、つまり繊細で生きづらい人たちに少しでも寄り添った文章を書くことなんじゃないか。そんなふうに最近思うようになった。元気づけるのは無理でも、ああ、こんなにアホみたいに心配性の人間がいるんだ、とか。ああ、自分以上に生きづらい人がいるのか、とか。それだけでも、僕が生きている価値はある。
そう考えると、僕の心配が少しだけ軽くなるのだけれど、えっとそんな感じでいいのかな?とまた不安になったりもする。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在は、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師も務める。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。サイト:オフィス★イサナ
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アジサイ
植松さん、私とまったく同じですよ。私も常に最悪の事態を考えています。昔から心配性だし、大人になるほど不安材料増加です。私は特に、年のせいでしょう、ここのところ健康と老後の経済状況が常に不安です。具合が悪ければ「もしかして悪い病気なんじゃないか」とか、今住んでいる国の女性の2人に1人は老後貧困に陥ると聞けば「貧困決定。こんなことしてていいのか」とか、毎日自問自答です。もう本当にビジュアルがありありと浮かんできます。もし「思考が現実を引き寄せる」などという引き寄せの法則が働いたとしたら、こういうタイプの人間の人生ってどうなるのでしょう。でも「考えていたほど悪くなかった」ことが多いのが救いですね。
uematsu Post author
アジサイさん
確かに、「考えていたほど悪くなかった」ということが多いですね。
僕はヨメによく「機嫌よく笑ってたらええやん」と言われますが、
逆に「お前はよく笑っていられるな」とおもいます。
とくに最近は「考えてもなかったわけのわからないこと」が山盛りに起こったので
不安もくそも、笑わなしゃーない、という事態に遭遇することが多かったりします。
で、最後の最後、楽しいか楽しくないかで考えると、
なんだかんだで、みんな、ギリ楽しいところに
乗っかるように努力してるんだなあと思います。