いつ、堕ちるのか。
以前にも書いたかもしれない。仕事と仕事の合間、こじんまりとした公園を見つけてベンチで休憩していた時のことだ。
幼稚園くらいの子どもでも、「ここでかくれんぼをしてもすぐ見つかる」と愚痴りそうな小さな公園には、ベンチが2つあった。車が一台通れるほどの狭い生活道路が交差する角にある公園で、道路に面していない奥の二辺それぞれに二人がけのベンチが置いてある。
ひとつに僕が座り、もうひとつに大きな荷物を2つ持ったいわゆるホームレスふうの男性が座っている。僕たちの他に誰もいないので、なんとなくお互いを気にしている。僕はスマホを見たり、ときどき空を見上げたりする。もう一人の男性はじっと目を閉じていたかと思うと、ふいに目を開き、長く息を吐いたりする。
僕はいつも思う。この人が何か悪いことをしたわけではない。少なくてもこの人が何かしたという現場を僕が見たわけではない。けれど、小さな子どもがこの人の隣に行き、親しげに話始めたなら、「大丈夫だろうか」と思ってしまう。ホームレスなのだから、何かある、と思っているわけではない。それよりも、一日が終わり、家のドアを開け、ほっと一息付ける場所がないのだとしたら、それはどれほどしんどいことなのだろうと思ってしまうのだ。
同じように、今日一日嫌なことがあり、そのことを話せる相手が一人もいないほど孤独だとしたら、それほど辛いことはないのではないかと思ってしまうのだ。
もちろん、ホームレスでなくても、しんどい毎日を送り、孤独な暮らしをしている人はいるはずだ。けれど、帰る家がある、という最後の砦はかなり大切なものだと僕は思う。フリーランスとして仕事をして、あちらのカフェでコピーを書き、人のオフィスの片隅で企画を考えたりしていると、「ああ、もう今日は仕事したくないよ」とつぶやいて、「そうですね」と誰かが答えてくれていた空間を懐かしく思ったりもする。
もし、いま、僕が街中のカフェで、急にそんなことをつぶやいたとしたら、それはもう立派に変な人だ。そう思うと、変な人に堕ちるか堕ちないかは、ギリギリの線上なんだなと思う。
昔、ある映画監督が、革靴のかかとをサンダルのように踏んで履いている人を見て、「もう踏んでもいいや、と思う瞬間というのは、いつどんなふうにやってくるんだろうね」とつぶやいた。まだ、若かった僕は、それほどその言葉に反応したわけではなかったが、妙に心に残り、いまでもときどき思い出したりする。
おれもう革靴のかかとを踏んでもいいや、と思ったり、おれもうホームレスでいいや、と思ったり、おれもう変な人と思われていいや、と思ったりする、その瞬間というのはいったい、いつどんなふうにやってくるんだろう。
もちろん、なろうと思ってなる、ということではなく、抗えない要因に押し出されていくという感覚もあるのかもしれない。それでも、やっぱりその瞬間というものがあるような気がして仕方がない。そして、そんな瞬間がやってきても仕方がないよ、とこの時代に、勝手に思い込まされている気もするのだ。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在は、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師も務める。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。サイト:オフィス★イサナ
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