翼の根元
とても弱い。驚くほど弱い。僕も強くないし、どちらかと言えば弱いやつだと思っている。けれど、若い学生を見ていると、あえてこんなふうに育てられたんだろうか?と思うような場面によく出会う。
食べ物に例えると叱られる気もするけれど、ほかに浮かばないので書いてしまう。ブロイラーの鶏肉を食べているような、なんの歯応えもない奴らばかりなのだ。たまに歯ごたえを感じても、なんだか筋のようなところばかりで、肉の味がしない。
野生の鶏はけっこう飛ぶ。人の想像をはるかに超えて飛ぶ。けれど、ブロイラーは飛べない。そもそも翼を広げるだけの筋力が備わっていない。
何回も書いているけれど、翼を広げて飛んでいるときのイメージばかりさせて、ちょっと飛んだだけで、今時の学校は「よくやった。これを続けていれば、いつか大空を飛べるよ!」と言う。子供たちはその気になって、ブロイラーのくせに、手足をバタバタさせながら校庭を走り回っている。
でも、それはたぶん嘘。翼の根元にある筋力をしっかりと鍛えることと、なぜ空を飛ばなければならないのかを知らないままでは、いつまで経っても飛べやしない。
新美南吉の『ごんぎつね』を読んだ小学生に先生が「お母さんのお葬式で、鍋でぐつぐつと煮ていたものは何?」と質問すると複数の小学生が「お母さんを煮込んで溶かしている」と答えた。と言う話がショッキングな話題として新聞に掲載されていた。
しかし、僕は先生のその質問に問題があると思ってしまう。子供たちは小さな頃から「自分の意見を言いなさい」と強要されている。僕が子供ころ、自分の意見なんか持っていなかった。けれど、今の学校では「自分の意見を言うこと」が重要だとされ、小学生からディベートの授業が用意されていたりもする。そんな中で、意見のない子供たちは「適当な正解」を口にすることに慣れる。「鈴木くんの意見の他にも色んな意見が入っている方がいいと思いました」「田中くんの意見は思いやりがあっていいと思いました」などなど。誰も傷つかない、そして、きちんと洞察しているかのように聞こえる意見は「正解」だ。先生もほめてくれる。
でも、それは本当の正解ではないはずだ。正解はもっと混沌としている。言葉にはなかなかできないものかもしれない。けれど、心の底から湧き出るような共感や、どろどろとした違和感。そんなものに自分自身で言葉を与えていくこと、または与えるように導いていくことが教育なのだと僕は思う。
つまり、先生が「何を煮込んでいたのか?」と聞いたから、生徒たちは「ここには僕らが思ってもみなかったような答えがあるのか?!」と思ってしまう。だとしたら、普通のご飯を作っているわけじゃないぞ。そうだ、きっと誰かを煮込んで溶かして川に流すというお葬式なんだ!と思っても不思議じゃない。だって、これまでだって、意見のない子に意見を強要してきたんだから。
最初は翼がうまく広がらなくてもいいから、翼の根元の部分の筋トレになるようなトレーニングが必要なのだと思う。最初から小さな翼の広げ方だけを教えて、「ほらできた」と先生が手を叩き、「わあ、できた!」と生徒が喜んでいるような茶番の連続で人は育たない。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。現在はコピーライターと大阪ビジュアルアーツ専門学校の講師をしています。東京と大阪を行ったり来たりする生活を楽しんでいます。