『さかなのこ』を見ながら思ったこと。
沖田修一監督の新作『さかなのこ』がとても面白かった。もともと、沖田作品は『横道世之介』『モリのいる場所』など好きな作品が多いのだけれど、今回、好きな作品が増えた。
『さかなのこ』はあのさかなクンが書いた自伝的な著書の映画化で、主演はのん。のんと平仮名で書くとなんとなく読みにくそうだが、朝の連ドラ『あまちゃん』に出ていた元・能年玲奈である。この配役が抜群によい。のんの演技力の確かさと、生きることに不器用そうな性格がそのまま反映されていて、見ていて勝手に応援してしまう。
で、今回は別に映画の感想を書こうということではなく、のんを見ていると思い出すことについて、なのである。のんはみなさんもご存じのように、『あまちゃん』で人気者になったあと、すぐに仕事を干されてしまった。詳しくは知らないのだけれど、事務所ともめてしまい能年玲奈という名前も使えなくなった。まあ、事務所としては「こっちが投資して売り出したんだぞ」という気持ちもあるのだろう。もしかしたら、契約書にもそのあたりが明記されていたのかもしれない。能年玲奈側からの声がほとんど聞こえてこなかったので、揉め事が割と静かに過ぎていって、いつのまにか能年玲奈は「のん」という名前で活動し始めた。
のんになってから、彼女は『この世界の片隅に』の声優やCM、映画などで活躍していて、いまはそれなりに売れるようになった。でも、一度売れた名前を捨てて、仕事をいったん干されてからはなかなか厳しかったようだ。ブッキングされたテレビを外されたりしたこともあるという。それでもめげずにやり続けて、今回はまるでのんのためにあるかのような映画で主役を張ることが出来た。
思い出すのは、能年玲奈という名前が本名であるにも関わらず、それが使えなくなったという理不尽さについて憤っていた人のことだ。その女性は「本名が使えないってひどすぎる」と怒っていたわけだが、まあ僕としては事情がわからないので、怒りようがないというのが正直な気持ちだった。もしかしたら、能年側がなにか理不尽なことをしたのかもしれず、だからこそ、「本名だけどこの名前は使わないで」と言われても飲むしかなかったのかもしれない、という気もする。いや、違うかもしれないけれど。
でも、確かに本名が使えなくなったということはなかなかに飲み込みにくい事実だろう。なにしろ、私生活では能年玲奈という本名なのだから。加勢大周のように芸名を使うな、と言われたら、私生活でも芸能生活でもその名前を使うか使わないかという話だが、本名の場合は私生活では使わざるを得ない。となると、相手の申し出を飲み込んでいても飲み込めていなくても、なかなかにヘヴィな毎日だ。役所に行くたび、カードのサインをするたび、Amazonで何か買うたびに、本名を書かなければいけないのだから。
僕の中ではそんな日々を送ったのんという存在は、ただの女優ではなく、なんだかものすごく長くて深くて暗いトンネルを抜けて帰ってきた人というイメージがあって、必要以上に心配になるし、応援したくなるのである。
なので、この『さかなのこ』も実はかなり肩入れしてしまっているかもしれない。のんが出る映画を見る時はいつも「つまらない作品じゃなければいいのに」と思いながら見ている。そんな目で見ているので、もしかしたら逆にハードルがあがっているのかもしれないが、この作品は間違いなく良い映画で、間違いなく面白かった。えっと、なんでこんなに、のんのことを勝手に応援しているのかというと、なんだかうちの娘に似ているのだ。不器用さが。だから、冷静に見れないところがある。でも、見ちゃう。娘みたいだから。娘見てるだけでも、あれなのに、よその子を娘のように見るって、ほんと手間がかかるね、おれ。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。現在はコピーライターと大阪ビジュアルアーツ専門学校の講師をしています。東京と大阪を行ったり来たりする生活を楽しんでいます。