ああ、中和。老化と進化のあいだ
今のが最後ね。もうそれ以上買い換えることはしないわ。
母はたしかそう言っていた。最後というのは父の車のことだ。母には幸い自動車免許は無い。
「あのね。今日クルマ屋さんに行って今日決めてきたわ。お父さんも古い。車も古いじゃ心配だしね。お父さんもこれからは小さい車の方が運転しやすいって言うし。輸入車の小さいのっていうのも故障とか修理とか、わたしたちにはそういうのも面倒だしね。ともかく今日の今日で決めてきたわ。今日の今日よ!今からクルマ屋さんが書類を持ってみえるの。んじゃあね」
3月も20日を過ぎて母の電話は例によって一方的だった。
「増税前のかけこみ消費?うちはカンケイないわね。だってあーた、わたしたちいつ死んじゃうかわかんないのにあれこれ買いためたって仕方ないでしょ」。この電話の数日前にはたしかそう言っていたはずだ。
晩年の高峰秀子さんが麻布の豪邸を「減築」されたはなしとか、作家の佐野洋子さんが病気の診断がおりたその足でジャガーを買って帰られたはなしとか。当然すぎることながら相当スケールの違いがある。
違いはあれど、あの母からの「小さいくるま」のハナシは少々の驚きだった。「今ので十分。今のが最後」。前言をいとも簡単に翻し「小さいくるま」に乗り換えることに決めた両親は、老化しているのか、進化しているのか。父79歳、母77歳。
シュジンのお義父さんはかなり前に運転免許を返上された。お義父さんらしい潔い選択は、家の前が大型スーパーという住環境と、歩くことを一切厭わない日常の習慣が手伝ってのことかも知れない。
わたしが今いる町では、ご高齢のドライバーがとても多い。みなさん果敢にハンドルを握られている。わたしの運転にも不安要素が全くないではないが、高齢の方の運転にはヒヤっとすることがないでもない。それでも。お年寄りの暮らしに「くるま」のはたす役割は大きい。
「車を小さくするよりいっそ運転をやめれば?」という言葉をわたしは母に言えなかった。「今までどおり」と「運転をやめること」のあいだ。その選択を遠くから見守るしかない。両親にしてなかなか小気味いい選択。そういう結論を切に願う。
それはそうと父が今まで乗った車は、わたしの記憶にあるだけで………。1台、2台、3台………。ジンセイの尺度ってなかなか難しいものだな。
日曜の夕飯前。わたしはシュジンをパソコンの前に呼んだ。「この中古マンションは周囲の環境もその他の条件も、わが家的にはかなりいい線だと思う」と。
シュジンはその物件の価格には関心を見せたものの、マンションという点に案の定難色を示した。長期的に考えられるマンショントラブルへの懸念。それをまず口にした。
その上でこうも言った。「環境がいいってきみは言うけどさ。そもそもその〈環境〉の意味合いがボクときみとでは違うからね」
わが家は今のところ持ち家がない。シュジン49、わたし47、息子11。来年の中学入学を視野に入れると住まいのことを具体化しておく方がいいのだろうとわたしは思う。え~?今頃?という友人の声が聞こえなくもない。
「そろそろ老親たちの近くに」「そもそもこのままでは落ち着かない」というのもわたしの正直なところだが、シュジンは若い頃から転々と住処を変えてきたせいか「なるようになる。なるようにしかならない」という雲をつかむような自説の中で飄々と暮らしている。
飄々は飄々でいい。けれども家族がいる以上それでは困る。とわたしは思っている。
シュジンの言う「環境のよさ」とは、交通至便で病院を含む日常の用事が徒歩圏内でまかなえる場所のことを指す。つまりは完全にリタイア後の生活に焦点が当たっている。
かたやわたしの考える「環境のよさ」は彼とは違う。シュジンとわたし。それぞれ自分が育った家のイメージに強く影響されているのは確かだ。
おうちの一軒や二軒。車の一台や二台。さして悩まずに買い求められる経済の方には無縁なはなしで恐縮だ。どこへ落ち着くか。どこを落としどころにするか。シュジンとわたしの話し合いはいつも平行線で終わる。
「中和でしょ。中和。ぼく、理科で習ったばかりだよ」。
親のはなしをサザエさんを見ながら聞いていた息子が言った。シュジンとわたし。今か老後か。老化か進化か。
中和ね。中和………。
nao
去年、90歳で亡くなった義父が、87歳で向かいの塀にぶつけるまで車を運転しておりました。
ぶつかったのが、人じゃなくて、ホントよかったです。
家族である高齢男性から、車を取り上げるのはどこも苦労しているようで
どんどん出来ることが減っていく中、「俺はまだ運転できるんだ」というのは
生きる意欲にもつながっていたりするのでやっかいですね。
そういう私の父も、75歳ドライバー。
この車で最後にすると言ってから、2回は買い替えてます。。
こたつ
こんにちは。
車と住まいって、その人(夫婦)の価値観をちらっと見せてくれますよね…。
知人に、75歳にして家業をやめ家を売り、全く知らない新天地で暮らしている老夫婦がいます。
車はレンタル?リース?のようです。
お子さんが独立されてるということが大前提ではありますが、
「持ち家がないっていうのもこの歳になると身軽でいいもんだよ」と言われ、その潔さに驚きましたが、案外そういう方も多いのでしょうか?
社会が成熟(進化?老化?)してくるとまた世間の価値観も変わるのかしら。
アメちゃん
おはようございます。
naoさんの義父さまのお話、私の父と同じです。
85才の父も去年、どこかにぶつけて(母が「お詫びをした」と言ってたので、どなたかん家の塀だと思います)、それで運転を辞めました。
それまで、ジープに乗ったり、最後の車も赤いスポーツカーみたいなヤツに乗ってて
毎日のように温泉へ行くのを日課にしてたのですが
車に乗れなくなってガックリ、急にウツっぽくなってしまいました。。。
今年初め、車を売ろうということになり、業者さんに連絡したものの
本人曰く「手放すとなったら、さびしいてなー、、」
と、結局いまだに庭に置いてあります。
naoさんがおっしゃるように、「生きる意欲」と
老いとともに手放さなければならないこととの狭間で
どうバランスをとっていくか、、、ですね。
サヴァラン Post author
nao さま
お返事遅くてすみませんm(__)m
「これが<最後>の車」
わたしも周囲に聞いてみたところ
「<最後>はなかなか最後じゃない」みたいですね^^
>家族である高齢男性から、車を取り上げるのはどこも苦労している
↑これは、ほんとうに、そうですね。
いつ、だれが、どのタイミングで。。
うちの場合はこういう場面こそ
母の出番!と思ってますが。。
サヴァラン Post author
こたつ さま
お返事が遅くなりました
「持ち家がないっていうのもこの歳になると身軽でいいもんだよ」
↑たしかに!たしかに!
昨日わたしのお習字の先生(70代)も同じことをおっしゃってました。
「家が欲しい」「車が欲しい」というのも案外一過性の欲望で
人生全般を見渡す望遠鏡の倍率を思い切ってぐわ~んと上げてみれば
「あれ?いらないんちゃう?」と思えてきます。
>社会が成熟(進化?老化?)してくるとまた世間の価値観も変わるのかしら。
↑視界が晴れるコメント、ありがとうございます!!
目指すは成熟!!精進します!
サヴァラン Post author
アメちゃん さま
お返事遅くてすびばせんm(__)m
やはりいつかは「壁」に突き当たる日がくるんでしょうね。
お父さまの「赤いスポーツカーみたいな」車
そして
「手放すとなったら、さびしいてなー、、」というつぶやき
ぐっときますね。。。。
「生きる意欲」と「老いとともに手放さなければならないこと」の狭間。
「人間」って、つねに何かの「狭間」にいるってことなんでしょうかね。。