〈 晴れ 時々やさぐれ日記 〉 「 ああ、お買い物。うれしさとはずかしさのあいだ」
――— 46歳主婦 サヴァランがつづる 晴れ ときどき やさぐれ日記 ―――
「ぼくはあれ、いやなんだよね」。車の助手席の息子がいいます。彼の視線の先には、理容店から出てきたお客さんを 理容店のスタッフ数名がお店の外まで見送っている光景がありました。「たしかにあれ、大げさでいやだね」とわたしは応えます。息子はこう続けました。
「うちのお父さんさー。あんなことされたらゼッタイ困るやろ。髪はおかあさんが切るからいいけどさー。だいたいさー、お父さんさー、買い物めったにしないよね。そんでもって何かを買わなきゃいけないときはさー、ぴゅっと行ってぴゅっと買ってさっと帰る。あれさー、きっと恥ずかしいんだと思うんだよねー。」
「何が?」 「買い物が」。
はーたしかに、と思いました。主人の買い物の様子は10歳の息子の観察のままです。だいたい自分の衣類は結婚以来一枚も買ったことがありません。「買い物」と言えるのはせいぜい家電屋さんでの必要最小限のもの限定。それにくっついていく息子は父親の買い物を、「ぴゅっと行ってぴゅっと買ってさっと帰る」と称するわけです。寄り道なし。脇目なし。留守番しているわたしからすれば「行ってくる」から「ただいま」の早いこと、早いこと。
「物欲」というものがものの見事にない。みじんもない。かけらもない。おもしろくない。
結婚したての頃、このひとの衣類をはじめとした身の周りの品のあまりの貧弱さに腰を抜かしました。私服通学だった高校時代の衣類が、30をとうに過ぎたとしまで彼の数少ないワードローブ(?)の主力を占め、大学入学の折にお義母さんから買ってもらったというトレンチコートとスーツが、そこから15年以上の長きにわたって、彼の「一張羅」に君臨し続けていた事実。
お義母さんは言いました。「あの子も、高校生のときはそこそこオシャレだったのに、今はゼンゼン構わなくなっちゃって。ごめんなさいね~。サヴァランさん。」
お義母さんはいつだってにこやかです。にこやかでいられないのは他でもないワタシ。白洲次郎ばりのダンディーになんて、およそ手のとどかない贅沢は現世ではもう言わない。せめて、せめて、年齢と立場に合った衣類の買い物予算を、少ない家計の中から捻出しなければ。
わたしはそれまで、男性の衣類というものにとても雑駁な知識しか持ち合わせがありませんでした。 そのくせ、映画やテレビ、職場や町の男性のファッションには、こころの中でかなりシビアな評価をくだし、それをひとつの「おたのしみ」にもしていたきらいがあります。主人は評価外。年齢と立場に相応の雰囲気を身にまとわせるためのわたしの奮闘は15年弱。未だなかなか成果が見えてきません。だって、本人に「その気」がないんですもの。
「ぼくさー、思うんだけどさー、買い物ってお父さんじゃなくてもちょっと恥ずかしい。どんな小さいものでもさー。うれしいんだけどはずかしい。なんでかなーと思うけど、あのうれしはずかしの感じはなんとなくムズムズしてくすぐったくって、ぼく、お父さんの気持ちもわかるんだよねー」
買い物はうれしくて恥ずかしい、か。。。わたしが普段するお買い物は「うれしい」感とは無縁な品々に完全に席巻されている気がするんですが、言われてみればたしかに、スーパーでキャベツをひとつ求めるにも、かすかなうっすらとした「うれしさ」のような感情が働いているかも知れません。右手と左手、どっちにしようかな、と重さや手ごたえを確かめている瞬間は、手の上でわずかに弾ませてみるキャベツみたいに、ほんとにかすかに気持ちがはずんでいる??
買い物は恥ずかしい。たしか少し前の「ほぼ日刊イトイ新聞」、スタイリストの伊藤まさこさんが、「olive」や「ku:nel」の元編集長の岡戸絹枝さんとのインタビューで、「白いシャツ」を前に同じようなことをおっしゃってましたっけ。そしてわたしも、「たしかにそうね」と白いシャツを見ながら思ったんでしたっけ。
むかしむかし、自分が「オシャレ」に関心があるということを口にするのが恥ずかしい時期が長いことありました。自分のお洋服を選んでいる最中はまさに「うれしはずかし」の極み。友人とオシャレの話しをしたり、お買い物に付き合うことはしても、自分のときはどうしても一人か母というアドヴァイザーを一人だけ。本屋さんでファッション誌を眺めるのも気恥ずかしい、あの棚の前で知ってるひとに会いたくはない。 あの頃のあれ、なんだったんだろうなー、と思います。
今急に思い出しました。。。「ヴァンテーヌ」という雑誌を愛読していたことを。「ヴァンサンカン」から遅れること数年、おおむね25歳以上を読者対象にしている先行雑誌と比べ、それより少し若い層を対象に据えたあの雑誌が、わたしの「うれしはずかし」感にフィットしていた感覚がよみがえります。素敵な旬の品々の紹介も新鮮でしたが、何のために「オシャレ」するのか、どうしたら「端正な」雰囲気を醸し出せるかという、少しだけ「オシャレ哲学」的な情報も加味した感じが好きで、言ってみればまあ、「ヴァンテーヌ」以前にはあまりなかった「まじめおしゃれ」の背中をそっと押してくれる雑誌だったように思います。
当時、巻頭エッセイを書かれていた光野桃さんの、少し文学的で抑制的な「オシャレ」の描写が記憶に残ります。はちみつ色の肌、ゆるくリボンで束ねられた髪。かかとの低いパンプスで小さなあごをこころもち上げ、広い歩幅で石畳の街を颯爽と歩く、「自分を知りつくした」ミラノの女性たち。。。
「エレガンスとは、自分を知り、ひとに優しくなれること」。光野さんはたしかそうおっしゃっていて、その言葉に「オシャレ」の神髄を見た気がしました。
「オシャレ」や「お買い物」が気恥ずかしいのは、「自分の欲望」と向き合う行為、あるいはまた、「自分を知る」というのっぴきならない行為へのためらいなのかも知れません。
明快に認識していたい「自分」の一面と、ぼんやりとした曖昧なイメージに留めておきたい「自分」の一面。その両者をゆききしながら、「現実」と「憧れ」の花ふる里を自分の身丈で歩いていきたい… 。
ちょっと!あーた!その恰好はダメってもう何度も言ってるでしょ!!
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永井 純
おはようございます。
FBのお友達がリンクしていて
このコラムを知り読ませていただきました。
「ヴァンテーヌ」今では懐かしい雑誌となりましたね。
私もお店を初めた頃、
大好きな「ヴァンテーヌ」に
新しくオープンしたお店として掲載していただき
「ヴァンテーヌ」のファンの方がなんと多いことかと
感動してのを思い出しました。
品があって、ちょっと背伸びもできるけど
あくまで普段仕様できる
ちょっと大人のお洋服を中心とした
ライフスタイルを提案していた雑誌として愛読していました。
今も「ヴァンテーヌ」に掲載していただけそうな
品のあるでもカジュアルな空気感も持つ
お洋服を作るようにしています。
ついつい衝動買いで、
セールで安かったから、、、というのではなく
必要なものを必要な時に買い足していくという
お洋服のあり方が
これから新しいライフスタイルとして
見直されてくるのではないでしょうか?
久しぶりに懐かしい雑誌の名前に
同じような思いを持った方がいらしたことに
ほっとした時間をいただきました。
ありがとうございました。
サヴァラン Post author
永井さま。コメントありがとうございます。
「ヴァンテーヌ」、廃刊からずいぶんになりますが、たくさんの方のおしゃれのバイブルだったんですね。おしゃれがお洋服だけにとどまらない、「ライフスタイル」の一部としての位置づけだったことも、今となればとても趣深い、記憶に残る雑誌でした。
永井さまのお店のHPとブログを拝見させていただきました。ああ、なんてオーセンティック。。。まさに「ヴァンテーヌ」の提案してくれた「端正」なお洋服たち。そしてそのお洋服が醸し出す上質で穏やかな空気感。。。京阪神の山手の雰囲気をそのままかたちにされたお店なんですね。
じっくり時間をかけて一枚のお洋服と向き合うことは、じっくりと自分と向き合うことのような気がします。過去と現在と未来が織りなす自分自身と、お洋服を通じて向き合えば、豊かな温かな空気をまとえそうな。。。
こちらこそ、ほっとした時間をちょうだいしました。HP、またお邪魔させていただきます。そして、できればいつか御堂筋のお店の方へも。