お金の威力はすごい
今の職場(図書館)では、ときどき休館日をつかって研修会があるのだが、このあいだやった「認知症と図書館」という研修の中で、おもしろいはなしを聞いたのでここに書いてしまう。
この研修は、図書館学の先生や認知症の専門家、NPOで認知症のひとたちの居場所作りをしているひと、サポートネットワークを立ち上げたひと、など4人のひとが来て、それぞれの立場で話をしてくれるという非常にぜいたくな会だった。計画した研修担当のひとはえらい。
その中に、作業療法を通して認知症の人の社会参加を研究している小川先生というひとがいて、おもしろかったのはその人の話だ。
小川先生は、高齢者と社会との関わりについて考えていて、ある村で、作業療法プロジェクトを立ち上げた。
それは、村の高齢者や認知症のひとに、村の木でしゃもじをつくってみがいてもらって、それを売って金にしようという計画であった。
始めてみると、ねらいどおりみんなうまいこと活性化してくる。
あるおばあさんなどは、レビー小体型認知症を発症していて、この病気には幻視をみるという症状があるので、家族はみんな困り果てていた。土蔵の前で(土蔵がふつうにあるんだな…)一日座り込んでじーっとしていて、誰かとぶつぶつ話しているので超こわかったらしい。
ところが、このプロジェクトがはじまってしばらくすると、おばあさんはその日を待ちかねて、いそいそとでかけていくようになった。
いままで着替えもろくにせず土蔵の前でぶつぶつ言ってたのが、いや、もしかして作業がない日は今もぶつぶつ言ってるのかもしれないけど、ともかく当日になると、おばあさんは自分でお気に入りの巾着袋を箪笥から出してきて、それをぶるんぶるん振り回しながら出かける時間を待つようになったのだそうだ。
それを見た家族のひとは、もうあまりにも怖すぎるので施設に入ってもらおうかとすら考えていたけど、もうちょっとこのままいけそうな気がする、と思うようになった。
まさに小川先生にとっては思うつぼの展開だ。
でも、さらに面白かったのはこのあとの話であった。
そもそもこのプロジェクトの効果として想定されていたことは、上記に書いたような事態=高齢者のひとたちと社会とのかかわりを作る、出かける先をつくる、→作業やおしゃべりを通して脳が活性化、自信がつく、自分も役に立っていると思えるようになる、というものだったのだと思う。
お金をかせぐ、というのも、こうした意義の延長線上、もしくは意義を補強する(お金をかせぐ=さらなる自信)役割と考えられていた。
じっさい、この話を最初にもちかけた当初、村の高齢者たちはぜんぜんやる気がなかったらしい。こちとらいそがしいんじゃ、しゃもじをみがく?はあ?
しかし、プロジェクトがだんだん軌道にのって、いがいと金になるぞということがわかってくると、老人たちは急にやる気をだして、がぜん通ってくるようになった。
作業場では売り上げに応じて分配金というかたちでお給料がでるのだが、小川先生がいうには、ふだんほっとんどぼけーっとしてるおじいさんが、その給料日にだけは急に目がぎらっとして、「週2回で月12000円か。…週6だったら36000円だな!」とか言うんだそうだ。暗算!しかも週6で働く気なのか。
そのおじいさんだけでなく、とにかく金がもらえるとみんな目がぎらっと輝くらしい。
自分で稼いだという自負だとか、社会に必要とされている嬉しさとか、そういうのももちろんあるだろうけど、単純に、いくつになっても「金がもらえるとひとは嬉しい。」ということがわかった。お金の使い道があってもなくても関係ない。いい話だ。
「金に目の色を変える高齢者」このことを小川先生はもう喜々として、ほとんどフキンシンなレベルで楽しそうに話していた。
高齢者や認知症のひとたちを、じゅっぱひとからげに弱いもの、きれいなもの、あるいは我慢すべきものみたいにしてしまわない。
他者として、人間を面白がりながら、その強欲さなんかもふくめて、そういう人間の自然なベクトルをうまく使って、効果をあげていけないかどうか、考えている。
小川さんは研究者なので、認知症のひとの家族ではないので、このように無責任に観察して面白がっていられるんだと言うこともできる。
当事者はそんなふうに、面白がっていられない。症状が進行するにつれ、変わっていく家族の姿を見ながら、昼も夜も、明日もあさってもつきあっていかなくてはいけないのだから。
それでも、いろんな立場のひと、いろんな視点があるほうがよいんだと思った。
ふと、熊本地震のあと、日記に書いたことを思い出した。
私たちはできる限り想像しようとする、でも、間違っているかもしれないし、ほんとうにはわからない部分がたくさんあるってことをいつも肝に命じている。
その「場所」と自分の関係には、さまざまな濃淡があり、距離があって、近くなくちゃいけないわけではない。遠くにいて、見えることもあるかもしれない。共感が、必ずしも唯一無二の解決策ではないかもしれない。
ほんとうはわかっちゃいない(かもしれない)ということだけは忘れないようにしながら、それぞれが、それぞれの場所でできることをするしかないのだ。
認知症のばあい、外からやってきた人のほうが、発症前の元気なそのひとを知らないがために、冷静に今のそのひとと向き合い、よい関係をつくれるということがあるいはあるのかもしれない。傾聴ボランティアなんかは、まさにそういうことがうまく働く作用する例なのだと思う。
だからって、そうした立場の人が、家族のひともこのような視点を持って、とか、肩の力を抜いてみれば、なんて冷静ぶって言い出したとすれば、それはたちまち後ろ頭をスリッパでスパーンとやるに値するのであって、そして、当事者たちが、いろんな立場がありだとわかっていつつも、「ひとの苦労も知らずに面白がりやがって」と自由に思うことだって、あっていいに決まっているのだ。
当事者のなかでだって、たとえばこのあいだオバフォー祭りでつまみさんとミカスさんが話していたように、相手が実母か義母かといった違いによっても、その濃淡には差があるし、そのトークで司会をしてくれたcometさんと失語症のだんなさんとの関係だって、それぞれ三種三様、そのなかで、3人ともいろいろな視点、感情のあいだをいったりきたりしているのだと思う。
件のプロジェクトのしゃもじは、木製だからよくご飯粒がくっつくので、新婚さんによい、とか、木の樹齢と同じ年齢の人が仕上げてるから縁起がいい、長寿祈願とか言ってよく売れているらしい。そういうところも非常に下世話でいい。
そしてレビー症のおばあさんだが、作業場に来ていてもあいかわらず幻視は見ていて、仲間に「あんたの右肩に誰々がいるよ」とか言っている。こわいわ!!
でも、言われたほうの人も、人の話なんかぜんぜん聞いちゃいないから、そこは「あー、そう?」で流されているんだそうだ。
by はらぷ
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爽子
とってもいいお話をきかせてもらった~。
いくつになっても、お金をもらうのって、嬉しいんですね。
暗算をちゃっとやってのけて、おもしろい。
「金に目の色を変える・・・」わかりやすく元気もらえるなんて、とってもいいこと。
日々いろんなことが起きますよね。
立場の違い、またどれくらいの期間困った状況にたたされるか、本人の健康状態でも、受け取り方に差が出てくると思います。
花緒
こんにちは!
いいお話を聞かせていただきました。
ステキな会ですね!
自分が年老いた時にいい自治体のお世話になりたい…。
はらぷ Post author
爽子さま、こんにちは!
ほんとほんと、お金ってなかなかたいしたやつですよね。
「懐があたたかくなる」っていうけれど、よくいったもんだなあと思います。
おなかにあったかい石を抱いてるみたいで、なんだか周りの風景も違って見えるというような。
そこに「銭勘定」(笑)みたいな下世話な部分も混じりあうところが、またなんともおもしろい。
あッお金と生命力の共通点ってそういうところかも!
立場のちがい、関わる期間、自分の健康状態、ほんとうにそうですよね。
自分でも、近しい人に対しては冷静になれなくて、疲れているときなんかとくに、「甘ったれるな!」みたいな精神論に陥っててヤバいときがあります。
でも、職場で利用者さんと接しているときはどこまでも寛容でいられる。
じぶんのなかに、当事者と部外者が両方いるんだとわかって、おもしろいやらあーあって感じやらです。
はらぷ Post author
花緒さま、こんにちは!
いい会ですよね。わたしも参加したいし、陰からみんなの様子を観察してもいたい(笑)
先生の語り口調がそう思わせただけかもしれませんが、本人たちも、関わる人たちも、どこかおもしろがってるというか、にやっとしているようなところが、またいいなあと思います。
下世話と人間愛のりょうほうがあるって最高じゃないか。
自分が年老いたときに、住んでる自治体がどんなかって、それだいじですね。。。
自治体が、そとにたいしてどれだけ開いているかが肝って気がします。
それこそ、水際の担当の職員さんが柔軟で面白がりかどうか、とかですごくちがってくるらしい。
やっぱり人なのか。それって運なんじゃ…とも思いそうになりますが、そういう人たちをどのくらい抱えてて自由にやらせてるかってとこにその自治体の性質が現れるとおもうので、やっぱり組織としての自治体だいじだと思いました。
そして予算配分!やはり金の配分=熱意の差ですよね。。。
そんな気軽に引っ越すわけにいかないし…とすると、どうすればいいんでしょう。せ、選挙…?(笑)