夏に思い出すこと
お盆である。
なぜ昔の人は、一年でもっとも生命力あふれるこの季節を、死者たちが還ってくる期間と決めたのだろう。
太陽も、茂る青草も、気の遠くなるような蝉の音も、昼間の熱気が残る夜の空気も、すべてがぎらぎらと、濃厚に死と分かちがたく結びついている。
そういえば、「夏の終わり」と言う表現も、春秋冬にはないものだ。
クラゲの浮いた海、骸骨感あふれる立ち枯れのひまわり、コンクリの上でひからびたミミズ。
夏にはどこか、終末感がただよう。野ざらしのされこうべといったらやっぱり夏だ。夏は肉が早く朽ちるからな…。
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私の夏のイメージは、母の実家である熊本で過ごした夏休みに元を辿れる。
母の故郷は、今は町村合併でどこにでもあるような名前に変わってしまっているが、元々は「砥用(ともち)」という小さな町で、小さい頃は、毎年夏休みになると、家族全員で遊びに行って、一と月ばかりも過ごした。洋服なんかはダンボールにつめて送って、ブルートレインに乗って行くのだった。
集落には、寺を中心に十数件の家があり、店はなかった。道についぞバスの来たことがないバス停があった。緑川の支流が流れていて、小さな眼鏡橋がかかっており、たもとに大きな木があった。
集落の終わりに神社があって、その向こうが隣の集落、名越谷である。そこにはアイスなど買えるような店があったような気がする。祖父母の家がある集落が田中、他に岩尾野と下田というのがあった。3つの集落を合わせて「三加」というのだと聞いていたが、4つあるのはなぜだ。買い物は、砥用の町中のスーパー「あめや」に行っていた。
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祖父母の家には、叔母(母の妹)の家族も一緒にくらしていて、2人の従兄妹がいた。毎夏、にわかに大所帯となるのだが、家は広く、寝るところにはことかかなかった。改築に改築を重ねているが、母屋と納屋、かつては家畜小屋がつながる昔ながらの作りで、蚕部屋だった2階を子供部屋に改造していた。わたしたちは、仏間に布団を敷いて寝た。よく、大きな女郎蜘蛛が巣を作っていた。
裏庭には、かつての家業だった藍染の甕がいくつもころがっていた。
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昼間は、だいたい川に行って、川端の小さなお社のまわりで、木のうろで人の入れそうな隙間はないか探したり、かつて野菜をあらっていた石組みの、溜まり水の中に足を突っ込んでぞくぞくしてみたりする。飽きると、山のほうに続く小道をのぼって、上の畑を見に行った。そこではタバコを作っていた。ときどき、クワに引っかかって死んだモグラが、道端にほうりだされていて、いちどあんまり毛がやわらかそうなので触ったら、姉にこっぴどくおこられた。
「死んでるものに触るなんて信じられない!!」と言われたが、なぜおこられるのかわからなかった。こんなにきれいでかわいいのに。
山の畑では、ほとんど人に会わない。祖父母の家が見えないところにいると、不安になり、見慣れた川に降りてくるとほっとした。途中の道には、昔の墓地があって、古い墓石がたくさん積まれていた。母が子どもの頃はまだ土葬だったということだった。
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祖母は盲目だったが、家のことはだいたいぜんぶ自分でやっていた。家にいる限り、祖母の目が見えないことを意識することはあまりなかった。
電話もとるし、料理もするしお茶も入れる。テレビは副音声付きでドラマやニュースを見ており、居間には町の無線がとおっていて、「どこそこで避難訓練があります」や、「どこぞのだれが亡くなって葬式はいついつ」というような放送がかかっていた。それを聞いてよく「はあー、こん子はやさしかもんねえー」(ドラマに対し)、「あらー、○○さんば、とうとうなくならしたと。」(無線に対し)等コメントしていた。
祖母は洗濯物をたたみながら、よく昔話を語った。家にやまんばが母親のふりしてやってきて、一番小さい弟をぽりぽり食うという話だった。上の兄がその音を聞いて、かあさん何を食っているんだと聞くと、向こうの部屋から小さい骨をほおってよこす。
最近になって、それが九州に伝わる「天道さん金の鎖」という話だと知った。最後にお母さんが帰ってくるの、こないの、「おそばのくきはなぜ赤い」に似た終わりなど、収集された話の中にも、いろんなバリエーションがある。
いま思えば、録音しておけばよかったと思う。
祖母が目を患い、視力をなくしたのは50代のころだったらしい。一度母に、そのときどう思った?と聞いてみたことがある。母は、「うーん」と言ったあと、「そのときはもう家を出ていて、じつはあまり覚えていない。なんか、もう歳だからみたいに感じていた気がする。今思うと50代なんてまだまだ若いのに、ひどいよね。」と率直に答えてくれた。残酷なような、わかるような気がした。
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祖母がこの家に嫁いだとき、祖父は海軍にいて、夫のいない祝言だった。祖父は仲人と一緒に、当時祖母が教師として働いていた学校を訪ねて、黒板に向かう祖母の後ろ姿を見、「おしりが大きいから子どもをたくさん産める」と聞いて、そうかと思って結婚したらしい。ひでえ話だ。
祖母は、教師から突然農家の嫁になって、夫のいない婚家でたいへんに苦労した。足半の草履で桑の葉を集めるのが辛くて、そのまま逃げ出して家に帰った、という話や、いろいろな話を聞いた。戦争が終わって帰ってきた祖父は、それを聞いて自分の代で農業はやめ、役場で職を得て定年まで働いた。祖父は戦争について、あまり辛い思い出は語らなかったが、祖父の足の爪はぼろぼろで、それは海軍では靴を脱ぐことが許されなかったからだそうだ。横断歩道で祖母を忘れて、うっかり向こう岸に渡ってしまうようなおっちょこちょいで、私はこの祖父の不機嫌な顔を見たことがない。
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ある年の夏、忘れられない出来事がある。
明日は東京に戻るという日の朝早く、下の分家のおばさんがかけこんできて、「お、お、お父さんが、しんでまったあ!!」と叫んだ。
おじさんが首をつったというのだった。すぐさま祖父と父が飛び出していって、祖母と母がおばさんを介抱した。
私たち子どもは仏間のほうにいて、何か大変なことがおきたことだけ感じておびえた。私は、上げてあるふとんにうつぶせて目をつぶり、やりすごそうとした。少し寝たかもしれない。でも子どもなのでそのうち気がそれて、近くの本をめくりはじめると、姉に「こんなときに本なんか!」とものすごく怒られた。見ると姉が少し泣いているのでびっくりした。そうか、これは泣かなきゃいけない事態なのか、そう思ってまたふとんのほうにいって、神妙にしていた。しばらくして姉を見ると、姉も気がそれて、本をめくっていたので、私もそうした。私は小2くらい、姉は高学年で、まだまだ子どもだった。
そのうち、父が大きく頭の上でバッテンを作りながら戻ってきて、おじさんが亡くなっていたことを告げた。「なむあみだぶ、なむあみだぶ、かわいそうに、かわいそうに」と祖母が泣いた。
おじさんは、祖父の妹の連れ合いで、酒飲みで陽気な人だった。じつは前の晩もうちに来ていて、子どもがいるあいだは楽しくしていたが、夜遅く、大人だけでなにかずっと話しているらしいのが、襖越しに聞こえていた。
昨日まで生きて話していた人が、今日はもう死んでいる。人の死にあったのは、それが初めてだった。後で訪ねたおじさんの首筋には、赤いあとがあった。
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そして不思議なことに、翌朝帰る段になって列車のチケットを見ると、なんと本当は、昨日が帰る日だったということが判明したのだった。父も母も、あらかじめ滞在予定を聞いていたはずの祖父母も叔父叔母も、全員が1日遅れの予定を思い込んでいた。
みんなあっけにとられて、「おじさんが、ひきとめたんかねえ…」「あん人、さびしがりやだけんね」と言い合った。
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祖父は90近くなってから認知症を発症し、ホームに入った。そして、祖父より前に、元気だった祖母が体調を崩し、誤診とも思える経過で急逝した。祖父は祖母のことは最後までおぼえていたので、どんなに悲しむだろうと、祖母の死は知らせなかった。それからしばらくして、祖父も静かにこの世を去った。
祖父の葬儀のあと仏間で、女たちが香典を数えた。肝心のお金が入っていないすっとこどっこいが2人いて、「どうするこれ…?」「2万円だってよ」と言い合った(ひとりは後から届けにきた)。
達筆すぎて読めないのや、これは誰だ…という名前があったりして、こういうとき、おばあちゃんがいたら一発なのに(じいさんはあてにならない)。しかしそれは出来ない相談なのだった。
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いろいろ済んだあと夕方散歩に出ると、集落は、山も空も音も秋の気配で、何もかも夏と違った。
祖父母の葬儀で、私ははじめて夏以外の砥用を知ったのだった。そのぐらい、私はこの場所のことも、祖父母のことも、ここで暮らすことを選んだ叔父叔母のことも、何も知らないのだと思った。
今は、定年退職した叔父叔母が、さらなる改築を加えて快適に暮らしている。従妹はシングルマザーになって帰ってきて、娘が2歳のかわいい盛りだ。
産まれて生きて死んで、産まれて生きて死んでいくんだなあと思う。少しだけ先にいく者たちのその凡庸な死を、私たちは取り込んで、今日も明日も、死ぬまでは生きていく。
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byはらぷ
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※「なんかすごい。」は、毎月第3木曜の更新です。
※はらぷさんが、お祖父さんの作ったものをアップするTwitterのアカウントはこちら。
Jane
たくさんの魂がぞくぞく集まっているような空。時々、趣味の違う大勢が分担して描いた、盛沢山の空ってありますよねえ。
私もこの夏何年ぶりかに、田舎の実家に滞在し、本家とか分家とか三世代同居とか、駆け落ちとか出戻りとか変死とか、出征とか終戦とか戦後とか、生まれて生きて死んでいく話を聞かされました。そして、先祖代々の墓。
今回の文章は特に私の好みで、一文一文、うまいなあと思いながら味わいました。帰りのチケットの不思議には、いつかのクリスマスデコレーションの怪を思い出しました(そういう回ありましたよね)。
はらぷさんの文章の老成感と、声と喋り方の若さのギャップ。ザツダンで「いい変人」について語られていた時に私の心に浮かんだのは、はらぷさんですよ….(褒めてます。お会いしたことないから、あくまで私の抱くイメージですが)。
ヴェル
うつくしいお話でした。なんで、こんな風に語れるのかしら?と。いつまでも聞いていたい…。
さすが、あのティッシュ人形(衝撃でした)を作る人の孫だけある、などと何時も一人ごちています。
また、楽しみにしています。
AЯKO
子供時代の夏の話、とても興味深いです。私と同じように、田舎で夏にひと月も過ごしていたんだね。どこで過ごしたかは、性格や感性に影響が出る気がします。
うちの祖母が語るのはいわゆる「三枚のお札」でした。山姥は本家の裏の山にいる設定なので怖かった。
宮城の祖父母の周辺も、駆け落ちとか首吊りとか町の有力者の妾とか、今何十年も住んでいる街より断然に人間模様が濃い。
子供だからあまり意味も解らずに聞いていたけど、当人達は葛藤したり燃え上ったり、濃密な時間を過ごしていたんでしょうね。
そして私も夏と正月しか田舎で過ごさないので、その土地が秋にどうなるか、祖父の葬式の日に初めて知りました。
はらぷ Post author
Janeさん
こんばんは!
「趣味の違う大勢が分担して描いた、盛沢山の空」!
ほんとう、まさに博覧会的な雲の日ってありますよね。いつまでも見てしまう…。
Janeさん、今年はこちらに帰ってらしたのですか。
さぞや濃密な夏だったことでしょう。
田舎は、外から来るとつい変わらないところばかり見てしまうけど、ほんとうはちゃんと今を生きていて、それが一族や集落の繰り返してきた生と死の、先端にいるのですよね。
「クリスマスデコレーションの怪」!ありました!
覚えていてくださって嬉しいです。
あれは種明かしがありましたが、この夏のできごとは、今考えても本当に不思議です。全員おっちょこちょいなだけかもしれませんが(笑)
「よい変人」…甘納豆好きな子ども的な…。
もう人生の到達点、最終目標です。
目指そうと思っていける高みではありませんが、それがいつの日か本当になりますように…。
はらぷ Post author
ヴェルさん
こんばんは!
勿体無いコメント、ありがとうございます。宝にします…。
母の郷里のことは、いつか書きたいと思っていたので、今年書けてほんとうによかったです。
祖父の人形のような遊びや自由さの境地にはほど遠いですが、めざせじいさん!
はらぷ Post author
AЯKOさん
こんばんは。
AЯKOさんは、本物の「三枚のお札」を聞いて育ったのか!
ストーリーテリングを勉強していて、「三枚のお札」はいつか語ってみたい憧れのお話なのですが、こんどAЯKOさんの聞いたバージョンを教えてください。
すぐそこの裏山に山姥がいるのこわいよね…。夜にトイレにいけない…。
わたしも、祖母の語る「ぽり、ぽり、」という音が最高にこわかったのをおぼえています。
「家」の存在と、メンバーの変わらなさ、その力関係が、人間模様を濃くするよねえ。本人たちにとっては模様なんてもんじゃなく、ザ・リアルなんだけど…。
大人は、子どもが聞いてもどうせわからないだろうとうかつに話してしまい、子どもはわからないながらにちゃっかり聞いていて、大きくなって合点したりしますね(笑)