時間は待ってくれない
気がつけばもう1月も後半。
遅ればせながら、本年もどうぞよろしくお願いします。
新年1本目のこの原稿は、ビザ申請の顛末(まだ終わってないが)を書こうと思っていた。ところが、そんなものは瑣末な出来事と思えるような事態が起きてしまった。
義母が死んでしまったのである。
先月、義母は白内障の手術の順番がまわってきて病院に行ったが、術前の検査で血圧が高すぎると診断されて、手術は流れた。そして一晩病院に留め置かれ、翌日帰ってきたのだった。その数日後、義母がふたたび入院したと、近所の友人のキャロルから、オットの携帯に連絡が来た。
そのときは、オットもわたしもさほど深刻に考えてはいなかった。義母の体調はずっとかんばしくなく、食べるとお腹をこわすのでものが食べられない、と言っていたので心配はしていたのだが、前日まで毎日電話で話していたし、「クリスマスが近づくと入院する」というのが、我が家の新しい伝統になるのか、などとオットが軽口をたたいたくらいだったのだ。20日に帰省しようと電車の予約をしていたけれど、前倒ししないと、と言っていた。
ところが、16日にオットの携帯がなり、出てみると義母の入院する病院の医師からだった。そして出し抜けに、「お母様に救急救命措置が必要になった場合、延命を希望しますか」と聞かれた。オットは仰天し、「まったく話がみえないが(今の時点では)もちろん希望します!」と言って、翌朝義母の住む島に向かった。電車がとれなかったので、イングランドの北から南まで、タクシーに乗った。
タクシーの中からオットは電話をしてきて、医師の説明では、sepsisと言われた、と教えてくれた。意味を調べてみると、「敗血症」と書いてあった。
「敗血症」って…死ぬやつじゃん…。
だから死ぬやつなんだよ、それで医者が電話してきたんだ。
でも、敗血症って「状態」でしょう、何が敗血症を引き起こしているのか、と聞いたが、詳しいことはわからなかった。
○
丸1日かけて病院まで行くあいだ、オットは間に合わないかもしれない、と覚悟していたらしい。
しかし、義母の容体はその時点では思いのほか回復しており、酸素のチューブが鼻に入った状態ではあったが話もできて、オットもわたしも胸をなでおろした。
医師の話では、肺に炎症があって、心臓に負担がかかっているということだった。炎症を抑える処置をし、呼吸を助け、体内の余分な水分を排出する、そして少しずつでも栄養をとって、体力を取り戻す。結局のところそれができることのすべてだった。
オットは毎日病院に通い、1日の大半を母親のベッド脇で過ごした。クリスマスのホリデーシーズンであったことは、その点とても都合がよかった。少なくとも1月の初めまでは、仕事の心配をせずいられたので。
義母の容体は文字通り一進一退で、体調が良さそうに見えた日の翌朝、オットが病院に行くと、じつは昨夜ちょっと危なかったんだとナースに言われることもあった。私も毎日ビデオ通話で電話をしたが、ベッドに座って会話ができる日、酸素マスクをつけて手を振るだけの日、と、トランプの札をめくるかのようだった。
最初の1週間は、このまま義母は乗り越えられないかもしれない、と思うことが多かった。しかし2週目に入ると、少し容体が安定し始め、口から栄養(といってもほぼ液体だが)を取れるようになってきて、私たちは希望を持った。義母は体調のいい日にはオットとケンカをし、退院した後の生活について口にした。
オットと私は毎晩、これからどうやって義母の生活をサポートしながら暮らしていくか、ということについて話し合った。義母が家に戻れるか、ホームに入ることになるかは、体力の回復と足腰次第だが、どちらにせよ現在の住まいはあまりにも遠すぎる。オットはなんとかして島から通える場所に転職しなければ。
義母の家に同居するなら家賃はいらないので、少し給料が下がってもいいからスピード重視で探そう。イギリスの病院は、すきあらばすぐに退院させようとしてくるが、義母の状態からいってそう近々ではないだろう、そのあと回復施設にうつって、私が移住できるまであと数ヶ月、ヘルパーさんか短期滞在のホームで乗り切れるだろうか。しかし長期にわたってホームに入るなら、家は売らなければならないだろう。
配偶者ビザが無事取れて、落ち着いたら段階的にやっていこうと話していた島への移住計画が、いちどきに圧縮してやってきた感があった。でも、もともとはそのために、イギリスに移ることを決めたようなものなのだから。ほんとうは、もっと早く動き出すべきだったかも、そんなふうに話した。
○
○
新年が明けると、院内の定期的な検査により、義母のコロナ感染が確認された。オットは職場に連絡し、休暇を延長したが、義母の容体は悪くなかった。電話をすると、義母は急遽移された個室を気に入っているようで機嫌がよく、「壁紙がピンクでいいね」と言うと、「特別待遇よ」と軽口をいった。その週には、足腰が弱らないようにリハビリの療法士さんが来て、支えられながらだがベッド脇に立つことができたくらいだったのだ。
しかしそこまでだった。翌日から義母は目に見えて衰弱し、眠っている時間がどんどん長くなっていった。この調子なら週明けにいったん仕事に戻って、また週末戻ってこようと思っていたオットが、ふたたび休暇を延長したのは、ナースに薬を飲ませてもらう母親の姿を見たからだった。今までは、どんなに具合が悪くても自力で飲んでいたのに。もう、母はあきらめたのかもしれない…。
オットは医師に、「もしあなたが息子なら、週明け仕事に戻るのは取りやめますか?」と聞いた。医師は「Yes, もし私が息子なら、休暇を延長するでしょう」と答えた。そして義母は火曜日にこの世を去った。
○
10日の夜9時、オットは電話をしてきて、日本語で「死んだよ」と言った。語彙がないゆえのその直接的な物言いがかえってこたえた。
オットが一足先にイギリスに戻っていたことで、最後の日々を近くで過ごせたことはよかった。それでもやはり、ひとりで死なせてしまった、と思う。
彼女の最後の数年間を、一緒に住めたらいいなと思っていた。義母はなかなか複雑でむずかしい人だったし、それは実際には大変なことだっただろう。できなくなった今、神妙ぶってそんなことを言うなんて、後出しじゃんけんもはなはだしい、我慢のならないファンタジーだ。
でも、義母はその複雑なバックグラウンドからなるプライドの高さで、東洋の嫁に寛容な女主人であろうと努めただろうし、私は持ち前の想像力で義母お気に入りのメイドを演じ、慣れない土地での存在意義を、介護に見出し利用しただろう。私と義母は、そうした虚構の共犯者という点で仲が良かった。しかしほどなくそれも破綻し、先の見えない地獄と化しただろう。
オットは母親のことをどう思っていたのだろう。オニール家の面々は、もうせんに死んだ弟2人も含めて、義母の作り上げた幻想の城をいっしょうけんめい守ろうとしているようなところがあった。その城の中で、息子たちはいつまでも手のかかる「ボーイズ」で、彼女は息子たちに「母」以外の顔を見せたことがあっただろうか。
息子たちにはそれぞれパートナーがあったが、多分彼女はその誰も、ほんとうには嫌いだった。唯一わたしだけ、翼下に入ることを許されているようなところがあったのは、たぶん私が、だいぶ年下の東洋人だったからだと思う。私たちはだれも子孫を残さず、彼女はラスト・オニールとなるオットにたったひとり見守られて死んでいった。
それでも、そうした騙し合いの関係でもいいと思うくらい、私は彼女が好きだった。
死ぬ前に生身の義母に触りたかったが、人生ここぞというときに、思い通りにはならない。
○
○
by はらぷ
○
※「なんかすごい。」は、毎月第3木曜の更新です。
※はらぷさんが、お祖父さんの作ったものをアップするTwitterのアカウントはこちら。
Jane
はらぷさんの文章には時々、死とか重いものがさらりと、少しのユーモアをもって書かれているんだけど、読んだ後は、それでも世界は回っていくんだと、厳かでかつ諦念のようなものを感じながら、荒野に立って風に吹かれている気持ちになりますね…。
Jane
それでもやっぱり、イギリスに移住されるのでしょうか。
Jane
1回目のコメント、轍だったかもしれない。面倒なので確認しませんが….。
はらぷ Post author
Janeさん
こんにちは。轍(この言葉も、オバフォー界隈ではすっかり定着笑)…だったとしてもしみじみと嬉しいコメントありがとうございます。
何があっても、世界は回っていくんだっていうのは、ほんとうに、いつもそう思っています。
渦中にいても、つい「観察」してしまうのは、これは癖というのか性分というのでしょうか。悲しんだり、不安におののいたりする自分も共存しているんだけど、その自分もまた観察対象みたいなときもあります。
もしかしたら、鎧の一種なのかもしれないですね。。。
義母が亡くなって、一瞬土台が崩れたような、梯子が外されたような気持ちになってしまったのも事実なのですが、今は動きはじめたこの流れにのって、行ってみようと思います。
身辺も、だんだん現実味が増してきました!(ビザがとれますように…)
Jane
もう乗り込んだ列車はとまらないのですね。人生の流れとそれに乗るタイミングとは不思議なものですね。
はらぷ Post author
Janeさん
本当ですね。カリーナさんが以前おっしゃっていた、「やっぱやめた!」にもう遅すぎるはない、を胸に、いざとなったら飛び降りてやるさという気持ちです。
とかいって、生来のめんどくさがりが人生を後押ししているだけのような気がする…。