(2)人形にも劣る私
夜遅くなってしまったので、病院併設のチェーンのコーヒー店で父と食事をする。
父は母とちがって押しつけがましくはないため、一年に一度メールをするぐらいの仲だったのだが、ことなかれ主義なので、妻と娘の仲が悪いと居心地が悪い、というだけの理由で私に母との仲直りを求め続けてきた。本質をまったく理解できていない。まあ、そんな鈍感さがないと、あんな母とは一緒にいられないだろう。
しかし、ここは父と仲良くしておかねばならない。この嫌なミッションを少しでも楽にクリアするためには情報が必要で、その情報は父からしか得られないからだ。父は体力的には年相応にヨレヨレだが、頭はしっかりしていて、これには助かった。
母は要介護で障害者手帳も申請していること、父は要支援であること、訪問の医者や看護師や介護士が時々来ていること、等々。いつのまにかケアマネージャーとつながっていたようだ。
しかし、要介護のいくつなのか、要支援のいくつなのかいまいち把握していないし、「ケアマネさんに今回のことを連絡しなくちゃいけないんじゃないの?」と聞いても、連絡先どころか名前すら認識しておらず、そもそも、そうしたものにのり気ではなかった生活がうかがえる。そういえば母からの手紙(勝手に送り付けてくる)にも、「他人が家に入るのが嫌だ」と書いてあったような気がする。
あと、何よりも確認しておかねばならないのは、お金のことだ(←金の亡者)。「年金けっこうもらってるから大丈夫。たくわえもある」。へーー。一安心して、父をタクシーに乗せて、私は路線バスでターミナル駅に向かった。
あとで、そのお金で苦労するとも知らずに。
枝に雪が積もった薄暗い道をバスで通り抜けながら、子どものころのことを思い出す。
理想を押し付けてくる母にいつも閉口していた。たとえば、小学校のテストでクラス一番を取っても、100点でなければいい顔はされなかった。「こんな簡単な内容でなぜ100点が取れないのか」と渋い顔をされる。そりゃ大人からしたら簡単だろうよ。子ども心に理不尽に思ったものだ。
何事も一発で上手にできなければだめで、小学校低学年のとき、社宅の子どもたち数人で(当時は社宅に住んでいた)水泳教室に通うことになったのだが、クラス分けで私だけが「泳げないクラス」になったことを、延々と嘆いていた。いや、今日はじめてプールに入ったんですけど? 泳げなくて当然では?
母は英語の通訳や翻訳をしていたということもあり(もともとは中学の英語教師)、私は小学生のときは夏休みの英語スクールによく行かされた。あれはなんだったんだろう、カラフルな部屋にいろんなおもちゃがあって、ほかの子たちと英語で会話する、という一週間。社交性に乏しい私は、英語云々以前に初対面の人といきなり親しげに交流することができず、当然、英語はまったく上達しなかった。今でも、語学全般、ひいては会話そのものが苦手なのはこのトラウマだと思う。
懲罰として家の外に出されてドアの前でずっと立っていたこともしょっちゅうあるし、口をきいてもらえないことも頻繁にあった。「そんな子はうちの子ではない」「そんな子とは口をききません」と宣言のうえで行われる。何が理由だったかはまったく思い出せない。
私はささやかな抵抗として変ないたずらをして、それを「××ちゃんに誘われた」と嘘をついたりする、悪い子だった。嘘は大事だ。すぐばれる嘘でもかまわない。嘘をつくことで、「あなたとは真剣には付き合いません」という意思表示をしていたのだと思う。
したくもない中学受験もさせられた。「いい教育を受けてほしい」と言っていたが、「いい教育」とは?? 塾に通わされたが、本人にまったくやる気がないので当然受からず。とにかく「やりすごす」ことで私は生き延びようとしていた。母はとても残念そうだったが、今になってみれば、母の妹が息子(私のいとこ)を中学受験させたことに触発され、張り合ったのだとわかる。
当時住んでいたのは社宅で、密なコミュニケーションが求められる場だったのも災いしたと思う。「〇〇ちゃんや△△ちゃんは……なのに」といつも比べられて、〇〇ちゃんも△△ちゃんも悪くないのに私は彼女らと無邪気には遊べなかった。
娘に対してそうであるなら当然、自身に対してもそうだった。自分はこうあるべき、という観念に縛られていた。そのため、社宅のほかの奥様の趣味や振る舞いにとても敏感だった。誰それさんが〇〇を始めたから私はもっと難しい××をやらなくちゃ、誰それさんがくれた△△が良かったから私はもっといいものを買って贈らなくちゃ。
自分が思うほどには本当の自分は優れていない、ということを無意識でわかっているからこその行動だったのだろう。だから自分の持ち物である娘に、他人に自慢できる要素を常に要求し続ける。それなのに娘は自分が望むようには育たない。
誰かからもらったお人形を手に、「今日からこの子が私の娘だから」と言ったこともあった。やだ、こわーーーい。
少し前の言葉なら「教育ママ」というやつだろうか。今は「教育虐待」と言うのだろうか。
何より母が気持ち悪いのは、口では「子どもにも人権がある、個性や意志を尊重しなければならない、自分はそうしている」と言うところだ。「どこが?」と心の中で突っ込んでいたものだ。
将来なりたい職業については一笑に付され、何かほしいものがあっても必ずと言っていいほど買ってもらえず、漫画は禁止、祖母に買ってもらったおもちゃは返品、NHK以外のテレビを見せてもらえなくて友達との話題についていけず、したくもないことばかりやらされる。それが「子どもの意志を尊重」?
後からわかったことなのだが、母は若いころ、精神を病んで長く入院していたという。何年も鬱状態だったのだという。
それでいて、鬱で退職した人を「恥ずかしい」「世間体が悪い」と言っていたのだ…!!
自分を「恥ずかしい」と思っているのだろうか? それとも自分の過去は無かったことになっているのだろうか?
おそらく両方なのだと思う。「恥ずかしくない自分」という仮面をかぶって、「恥ずかしい自分」を存在しないと思い込む。本気で。でも奥底では自分を「恥ずかしい」と思っているから、自分のことも娘のことも、必死になって「恥ずかしくない」に近づけようとする。なんという認知の歪み。
カウンセラーによると、母は多重人格のような手法で自分を守っている可能性がある、とのことだったそうだ。そういえば、演技がとても上手かった。絵本を読むときなど臨場感たっぷりで、幼い私は母のお芝居ごっこを、そのときだけは本気で笑って楽しんだ。唯一の楽しい思い出と言ってもいいぐらいだ。
映画『ドライブ・マイ・カー』に、娘を虐待したあとに幼い人格が出てきて一緒に遊ぶ母親というエピソードがあるが、母を思い出してぞっとした。むちゃくちゃリアリティがある。
自分、よく普通に成長したな。
いや、してないか。
鬱体質の夫を選んでしまったのだから。
絹ごし豆腐
私も「よく普通に成長したな」とたびたび思います。
家庭以外の、周りの方々にたくさん助けられたのだろうと思います。
プリ子さんも、よくぞご立派に成長されましたよ。
ヤ◯ザの女房にも犯罪者にもなっていないのですから。
父がガン闘病で亡くなる少し前、「兄妹の中でお前だけがいつまでも独身で親に心配かけて」と言われた時「今しかない」と思い、私は言い返しました。
「ヤ○ザの女房になったり、私自身が刑務所に入るような人間にならなかったことを感謝してほしい」
暗に「そうなってもおかしくない家庭環境だったのだから」と滲ませて。
若い頃に小説家になりたかった父は行間を読む力があったらしく、ぐっと詰まった後、弱々しい声で「…そうだな」と言いました。
私はその後、父の知らない男と結婚し、父の知らない孫ができました。
「いつまでも心配かけるのはお前だけ」と言われた私だけが、父の孫を残しました。
プリ子 Post author
絹ごし豆腐さん、ご苦労されたのですね。
お父様は理解力と自覚はあったんですね。でもその「心配」って…。
「普通」と雑に書いてしまいましたが、ヤ○ザや犯罪はもちろん、そこまでいかなくても、リストカットとか、薬物依存とか、なっててもおかしくはなかったと思うんですよね。
きっとこんなふうに、やばいところに行きそうで行かないとか、片足突っ込んでるような人が、じつはたくさんいるんだろうなあって思います。