釘を探しに。
子どものころ、ずっと下を向いて歩いていた。別に気持ちが暗くてうつむき加減で歩いていたわけではなく、幼稚園から家に帰るまでの道のりに興味が引かれるものがあちらこちらにあって、上を向く暇がなかったのだと思う。
僕が通っていた幼稚園は歩いて10分ほどの小学校の敷地の中にあった。小学校の運動場を横切って、敷地の端から端まで歩くと幼稚園にたどり着く。そこまでの10分ほど道のりに、毎日発見があった。家から出ると、隣近所の軒先に花壇があって、毎日いろんな花が咲き、そこにやってくるチョウチョやコガネムシなどの昆虫がいる。虫好きだった僕は、飛んでいるチョウチョがいると、そのチョウチョの後をついていって、幼稚園に遅れることもあった。
花壇が多い場所を通り過ぎると、今度はちょっと大きな家があり、長い長いブロック塀があった。ときどき飾りブロックのような、穴の空いたものがあって、そこから大きな家の庭が見えた。その家はなにか商売をやっていて、その家の庭には荷物が積まれたり、人がたくさん集まったりしていた。僕はそんな様子をのぞき穴のようにのぞき込んでは観察していた。また、ブロック塀にたまに描かれる近所の子どもたちの落書きも面白かった。幼稚園の僕には読めない漢字もあったけれど、想像で読み上げて覚えた字もあった。
そこから車が行き来する道路を一つ渡ると、生活用水路が流れていて、たまにザリガニや亀がいることがあった。朝見つけるとそれをもって幼稚園にいくわけにはいかないので、用水路の要所要所にあったゴミを流さないようにするネットのなかにザリガニや亀を隠して幼稚園に行き、帰り際にそれをつかまえようとした。まあ、だいたいは幼稚園児の隠した場所にジッとしている小動物などいないので、悔しい思いをするのだった。
用水路の前には神社があって、大きくはないけれどこぢんまりした鎮守の森があった。夏にはセミが鳴いているし、秋にはよくわからない木の実がなっているのだが、僕はそれよりも木々の間に捨てられている小さなモノが気になって仕方がなかった。例えば、錆びた釘。例えば、誰かの汚れた帽子。例えば、雑誌。それを拾ってくるわけではないのに、じっと観察して余計な時間を過ごしてしまう。
でも、そんな観察が役に立つことがたまにある。僕らはパカポコと呼んでいた気がするが、空き缶に穴を開けて紐を通してつくる缶馬というのか、パカポコでいいのか。あれをつくるときに、釘が必要になるのである。そうなると、日ごろの観察が活かされる。幼稚園まで道のりをひとっ走りすれば、釘も紐も空き缶も全部手に入れて帰ってこれるのである。
あの時のクセが残っているのか、いまだに僕は下を向いて歩くことが多い。そして、いまだに「あそこにジグソーパズルのピースが落ちている」とか「あ、川のなかにロボットの玩具が沈んでいる」とヨメに報告しては呆れられているのだ。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。