クリスマス飾りの謎
もう2月も半ばをすぎようというのに、いまだクリスマスの話を…。
昨年の暮れ、12月21日のお昼に義母の家に着くと、玄関先の針葉樹の鉢植えに、金色のモールが一本巻き付けてあるのが見えた。
その木は、おととし亡くなった義弟のDが、生前に買ってきては、いろいろと庭作り計画のふろしきを広げ、そのあげく庭の片隅に放置されることになった多くの植物のうちのひとつで、乾き気味の枝にたよりない葉をくっつけて、どうにか細々と生きていた。
息子2人を亡くしていらい、義母が、もうクリスマスは祝わない、と宣言し、今回の帰省を伝えた際も「なんでわざわざ寒いクリスマス時期に来るのよ、何のために?」とまで言われて、「母よ…生きている私たちはいったい…」と思わないでもなかった私たちは、へえっと顔を見合わせた。
家に入って、あいさつもひととおり済んだところで、オットが
「ところで、クリスマスの飾り、してるじゃない。」
とからかうと、義母はなんのこと?という顔をして、
「してないわよ、この家のどこにあるっていうの。」
と言った。
「ちがうよ外だよ、玄関のツリーのこと!」と言っても、「は?ツリー?何のはなしをしているわけ?」と取り付くしまもない。
しらばっくれている様子もないし、オットと私はふたたび顔を見合わせて、もう一度玄関を開けて、「これだよ、ほら」と例のあわれなツリーを見せた。
すると、義母は「これはツリーじゃないわよ、Dがほったらかしたただの木じゃないの。」とまともに見もしない。
「でも、モールがかけてあるじゃん」と言うと初めて、木をまじまじと見つめて、
「ほんとうだわ。」と言った。
私たちは、えーっと声をあげて、「知らなかったの?!」と聞くと、
「知るわけないわよ、だって、わたしずっと外に出てないじゃない。」と言う。
そういえばそうだった。10月の終わりに玄関先で転んでおでこを6針も縫う大けがをして以来、義母は家から出なくなった。
鉢植えは玄関のドアをあけると死角になる場所にあるし、ゴミ出しくらいはしているけれど、外に出ることがすっかり怖くなっている義母に、庭のあれこれを眺める余裕がないというのももっともなことだった。
その飾りは、クリスマス・ツリー、といって思い浮かべるような素敵な飾りとはほど遠い、パウンドショップで手に入るような安っぽい星の形のワイヤー入り金モールで、長さも中途半端に、梢に引っかけてあった。
風に飛ばされてきたモールが、たまたま枝に引っかかってぶらさがっているというような風情すらある。
「偶然にしちゃできすぎじゃない?」
「じゃあ誰がやったんだろ、いたずら?」
「いたずらよ、通りがかりの人が道からゴミ投げ入れていったりするじゃない」
「いやいやいや、わざわざ門を入って、このモールだけ引っ掛けていくいたずらってある?」
と3人でさまざま推理したあと、
「じゃなかったらキャロルでしょ?」
ということでその場は落ち着いた。キャロルというのは、近所に住んでいる義母の友人で、しょっちゅう顔を見に来てくれる人だ。
とにかく、早く家に入りたい!寒い!
キャロルが来たら聞いてみよう、と言ったのに、そのつど忘れてしまい数日が過ぎた。
そして、クリスマス・イブの朝、オットが非常に深刻な顔をしてやってきて、「ねえ、ちょっと客間に行ってみてよ」と言う。
「何?」と聞いても、「いいから」としか言わないので、なんなんだよと思い部屋に入ると、とくに変わった様子は見られない。
暖炉と、いくつかのソファー、テレビ、窓の近くにはじゅうたんの穴ふさぎに、Dが昔チャリティーショップで買ってきた巨大な犬のぬいぐるみが座っている。
そして、ふと気が付いた。
犬のぬいぐるみの首に、例の金モールが巻き付いている。
ひゅーっと背筋が冷えて、数日前にツリーの飾りを見ていらい、うっすらと頭のすみで考えていたことが、カチッと音をたてた気がした。
Dの買ってきた木、Dの買ってきたぬいぐるみ…。
無言でオットのところにもどると、
「見た?」と聞くので「…見た。」とこたえた。
「あれ、いつからああなってた?」
「おぼえてない…今まで気付かなかったけど、ちゃんと見てなかっただけかもしれないし…」
義母に聞いても、よく覚えていないということだった。ふだんはあまり使わない客間だが、カーテンの開け閉めに、私たちの誰か、一日一回は出入りしているはずなのに。
その日の午後、オットと町に買い物にでかけたさい、どちらともなくその話になった。
「あれさ、ほんとうにキャロルがやったと思う?」
だとしたら、愛すべきゆかいないたずらだ。でも、あのひかえめで、何事も人の気持ち優先な彼女のやりそうなこととは思えない、というのが、私たちの一致した意見だった。彼女がクリスマス好きなのは、知っているけどさ。
「じゃあ、誰だっていうの」
というオットの問いに、私が
「あれさあ…、いかにもDがやりそうなことじゃない?」
と言うと、オットは、あーあ、言っちゃった、という顔をした。
やっぱりそっちもそう思ってたんじゃないか。
だいたい、あの飾りの雑さ!
教会のフラワーアレンジのボランティアを何年もやっているようなキャロルの仕事とは思えない。
しょぼい木に、しょぼい飾り、こういうのがクールなんだと、Dがいかにも得意げに言いそうだった。
そしてもうひとつ、私が気付いていたこと。私、あの金モールがDの持ち物だったことを知っている。
Dが亡くなる前年のクリスマス、Dと2人であの木に飾り付けをした。クリスマス飾りがいろいろ入った箱のなかに、あのモールもあったことを覚えている。
そのころ木はまだもうちょっと元気で、Dがはりきって(金もないのに)買ってきた素敵なアンティーク風のオーナメントと、箱の中で見つけた金色のリボンで飾ると、なかなかシックでいいクリスマス・ツリーになった。
Dは当時すでにかなりアルコール依存症がすすんでいて、すぐに気がちってしまうので、ぜんぜん作業がすすまず、結局私がぜんぶやった。でも、そのときのDは少なくとも素面で、わたしたちはいろいろな話をした。私とオットの結婚式がいかにすばらしかったか、以前住んでいたドイツの、友人の祖父が持っていた森の別荘のはなし。ほとんどDがしゃべって、私はそのひゃくまんかいくらい聞いた話を、手を動かしながら聞いていた。
そして、飾り付けが終わると、Dは「そうだ!」と言って、どこからともなくへんな編みぐるみの熊の人形を数体持ってきて、そのシックなクリスマスツリーに設置して台無しにしていた。
私が「だいなしじゃん。」と言うと、にやっと笑って、これがいいんだ、わかってるくせに、と共犯めいた顔をした。
そのツリーがすえてあったのが、今あの巨大な犬が座っている場所だった。客間のじゅうたんの、穴の上。
Dの死後、義母は家にあったクリスマス飾りを、リースもオーナメントも何もかも、人にあげるかチャリティーショップに寄付するかしてしまった。
2年前、こういうのはクリスマス前に出すのがいいのだと言って、それらをエントランス・ホールにつみあげていたことを覚えている。
Dが亡くなったのが11月だったから、何もこんなすぐに、と思ったが、たぶんもう見たくもなかったのだろう。その中に、あのモールも入っていたはずだった。
Dはもともと、「お父さんの幽霊がベッドの脇に立っていた。」という話をよくしていたくらいだから、こういうことをしに出てくることには抵抗がないだろうな、と思った。
そうすると、この客間にひとりでいると出てきちゃったりするのかな、それはちょっと困る。まあ、Dの幽霊ほど感じのいい幽霊もないことだろうが、幽霊ともなると、人の心も読めるにちがいないから、私がときどき晩年のDに対して、ほんとうにうんざりするなあ、と思っていたことや、亡くなったときに、ほんのちょっとだけ、「ああ、終わった…」とほっとするような気持ちに近い感慨を持ってしまったことなどが、Dに知れたらいやだな、と思った。
ろくでもない。Dが幽霊になってまで会いたいのは、私ではないだろう。
25日には、さすがにちょっとはクリスマスらしい食事をして、そうするとやはり話題は謎のクリスマス飾りのことになった。
義母も、キャロルだとすれば彼女らしくないやり方だ、ということだけは気になっているらしかったが、オットが「Dっぽい感じしない?」と口をすべらすと、きょとんとして
「Dができるわけないじゃない。」
と言った。純粋に、物理的に不可能、というような口調だった。
私が「いや、できるんじゃない?」と言うと、「まったく何を…」といいかけて、「ふーーーむ」と長い息を吐いてそのまましばらく黙った。
そうかあ、そうだったのかあー。
……………
………
……
…
で、結論からいうと、犯人はキャロルだった。
…っておい!ここまで引っ張っといて!!
私はその場にいなかったが、翌日オットが、訪ねてきたキャロルに聞いたところ、私よ、と当然のように言ったらしい。
後でキャロルに「あれ、キャロルだったのか」と言ったら、「だって、クリスマスなのよ」と言われた。「他に誰がいるの、私以外に。」と、それが数日間我が家に謎と波紋をもたらしていたとは思いもよらない様子だった。
何をあれこれ考えていたんだ私たちは…。早く聞いときゃよかったのに。
そうかあー、そうだったのかあー。
3人とも、なんだか、ほっとしたような、がっかりしたような気持ちだった。何日も聞きそびれていたというのも、心のどこかで、答えを知りたくないようなところがあったのかもしれない。答えがどちらであったとしても。
31日の夜はキャロルがやってきて一緒に年越しをする、というのが、彼女の夫が元気だった頃からの伝統で、今年もテレビでロンドンの花火の生中継を眺め、新年おめでとうのあいさつをかわし、深夜に徒歩5分ほどの彼女の家まで一緒に歩いた。
キャロルの家の玄関には、それは素敵なクリスマス・リースがかかっていて(あっちでは1月のはじめまでクリスマスの飾りが続く)、それが門灯の下、朱色のドアにとてもよく映えていた。
私が「今までに見たクリスマスの玄関のなかで、一番素敵だ。」と言うと、家の中の飾りもどうぞ見ていってよ、と中に招いてくれた。
そして一歩入ったとたん、私たちは息をのんだ。
壁という壁、棚という棚、テーブルの上、階段の手すり、家中のありとあらゆる場所が、クリスマスデコレーションで埋め尽くされている。
彼女の家は、19世紀後半に建てられた典型的なミドル・クラス向けのヴィクトリアン・ハウスで、天井の優雅な装飾や、吹き抜けの玄関ホールがクリスマス一色に飾り立てられているさまは壮観だった。
「わーお」と私たちは口を揃えた。それ以外に、なんと言えばいいかわからないくらい、その飾り方はすさまじかった。
玄関ドアの脇には、等身大のサンタクロース人形が立っていて、センサーで人が来たのを察知して、歌い、踊るのだった。
これを飾り付ける労力やいかに…。そしてこれだけの飾りを、ふだんいったいどこにしまっているのだろう…。
私たちがのみこんだ言葉は、たぶん同じだったと思う。
「狂ってる。」
今度こそ、私たちはほんとうに理解した。あの、謎のクリスマス飾りが、まぎれもなくキャロルのしわざだということに。
クリスマスを祝う気持ちになれない親友の気持ちもわかる、それでも、飾りのひとつもない殺風景な義母の家に、彼女はどうしても耐えられなかったのにちがいなかった。
その葛藤の結果が、あの吹けば飛びそうなちゃちな金モールになったのだと思うと、おかしさがこみあげて、帰り道、オットとふたりで
「すごかったねえ…」
「人ってわからないねえ!」と言い合いながら帰った。
そして義母に「すごかった!」と報告すると、
「だから言ったじゃないの。キャロルはものすごくクリスマスが好きなのよ。」
と何をいまさら、みたいな答えが返ってきたが、義母よ、あれ好きのレベルとちゃうよ…。
あれから2ヶ月も経つというのに、思い出すだにじわじわくる。生きている人間はほんとうにおもしろい。
by はらぷ
【お知らせ】
1/29の「今週のどうする?over40」でつまみさんが触れてくださいましたが、2/1〜2/12まで西荻窪の「もりのこと」というギャラリーで「君と暮らせばーちいさないきものと日々のこと」という展覧会があり、それに合わせて作られた冊子に、「いなくなったティーちゃん」という題名で、うちの猫のティーちゃんのことを書きました。
展覧会が終わり、冊子も一度売り切れてしまったそうですが、現在第2刷目を準備中で、もりのことさんのHPから注文ができるそうです。
猫や犬、亀など、一緒に暮らしているいきものについて、15人がそれぞれに短篇を寄せた、ちいさな掌の火のような文集です。私のはともかく、他の皆さんの文章、中に収録された絵、装丁のひとつひとつが本当に素晴らしいので、ご興味がありましたらぜひご覧いただけたら嬉しいです。
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※「なんかすごい。」は、毎月第3木曜の更新です。はらぷさんのブログはこちら。
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