セックスも、介護されることも「不完全なケア」にカラダをゆだねること
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今シーズンはこちらの記事からはじまっています。
【カリーナ→あきら 2015・4・13 1:13PM】
あきらさんがブログで紹介されているケアの宛先、面白そうです。さっそく図書館で予約しました。すぐに借りられそうです。
このところのあきらさんのブログの記事を読んで「ああ、Sex and the Ageでもこういうことを話したかったのだ。話すべきなのだ。あきらさんは、常にこういうことを言っていた…」と、わたし、なんか深く反省しました。
冬の間のバタバタから(注:一昨年2014年の冬のこと)自分の考え方が雑駁になっていた。
あーーー。わたしってなんでこうなんだろう。セックスをセックスとして語るのでなく、ケアとか、「カラダの接触」をともなう領域に想像を広げていくこと。それは、死にも近づくかもしれない…そういうこと考えていたんだった。
以前、わたしのブログで加藤和彦氏の死についてきたやまおさむ氏が書いている文章を引用した(過去にしんみり浸ろう。生きるための「つっかえ棒」だから。)んですが、そこに書ききれなくてしかもいま手元にコピーがない!のですが、
加藤和彦氏が「葬儀はいらない」と遺書に書いていたのに対して友人であり、精神科医でもあるきたやま氏は、「この死者の言葉に耳を貸してはいけない」と言って葬式を出した、と。そして自分を含めた団塊の世代以上の人間、おそらく男性は、自分の人生すべてを自分でコントロールしようとする(表現は違っています)けれども、介護とは、「不完全なケアに自らをゆだねることだ」というようなことを書いていたんです。
そのときにも老い、性、ケア、介護、死、自己愛などを考えたのでした。あきらさんのメールにあった
身をゆだねる能力は生きていく上で必要だと思うし、ゆだねたいという欲求もここにきて強くなってる気がするの。マッサージだとかネイルをしてもらうとかエステだとか何かそういうものが欲しくなる。切実に撫でられたい。ゆだねる側じゃないかもしれないけど犬猫を撫でるとかも通じてるよね。高齢になって世話をしてもらうにしても、上手にゆだねられるって重要なことだと思う。からだも心も。(こちらの記事より)
ってところにつながることだよね。
「老い」とともにセックスを思うことは、「上手にゆだねたい」ということかも。前のメールの、最後の、率直な「とすればやはりセックスしたいなぁ。」ってひと言いいねー。男はいいなあ、って言った晩年の幸田文みたいだ。
【再び カリーナ→あきら 2015・4・27 17;33PM】
「ケアの宛先」面白かったので、つい「いろんな言葉」で抜粋したところを紹介してしまいましたーー!
皮膚と皮膚のふれあうところ表面と表面のふれあうところに心が生まれる。
ほんとそうだよねえ。
わたし、この前、脳こうそくで闘病中の友だち(男性)のお見舞いに行ったんですが、手を握ったの。ふわっと。手に触れたくなって。それにあきらさんとのやりとりもあったから「もう触れちゃおう」と思って(笑)ブログにも書きました。→ ファッションに「ケア要素」を入れてみるのはどうか、私たち。
相手は、うれしそうでも何でもなかったけど、でも、触れてよかった。触れる練習になったというか、触れて慈し見たいという気持ちがすっと表せた。わりにいい感じにできたと思う。
上手にさりげなく触れる人になりたい!わたしにも触れてほしい!
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