◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第79回 今そこにあるもやもや
「クローズアップ現代」で桑子真帆アナウンサーが料理研究家の土井善晴さんのキッチンで一緒に料理を作っていた。あっ!と思ったのは、その組み合わせでも厨房の素敵さでもなく、桑子さんが左利きだったからだ。
私は真性左利きだが字を書くのと包丁ハサミは右だ。字は、幼稚園のときに先生の勧めで矯正した。今、矯正でまず浮かぶのは歯列だろう。でもわたしがこどもの頃は、歯列より字の矯正の方が一般的だった。書き順が覚えづらいとか、書道のときに困るとか言われて。おさなごころにも理不尽な気がしたし、矯正中はもどかしくてイラついた。だからといって、幼稚園の先生のアドバイスを鵜呑みにした母親を責めることはできない。1960年代はそういう時代だったのだ。
多様性!ダイバーシティ!と声高に叫ばれるようになって、当初はいい時代になったなあと思った。利き手の矯正も強制されることなどなくなり(シャレか)、勤務先の小中学校での左利きの多さには驚きより感慨が先に立つ。もしかしたら、自分が矯正者(←そんな言葉はない)だから左手で字を書く人が他の人より気になるのかもしれない、ある意味、過剰反応?とすら思うようになった。
でも、最近はちょっと気持ちが変わってきた。いや、正確に言うと、かなり気持ちが変わった。いい時代になんて、なっていないのではないか。
多様性を謳うなら、セットで必要なのは寛容さだと思っている。それは、たとえば、バスに車椅子の人が乗ってくるときに他の乗客たちが迷惑そうな顔をしないというレベルの閉じた寛容さではない。車椅子の人が今までの人生で公共交通機関を利用するたびに感じてきたであろう絶対的な不便さ、いたたまれなさ、恐怖感(これが大きいという)などにも想像力を発動させるような、人の尊厳がなによりも前提の寛容さだ。自分がちゃんとできているなんて思っていないが、できるようになりたいとは心から思う。
うわべだけの寛容さだってないよりまし、本音は内々で特定の相手にだけ発露し、もちろん匿名で誹謗中傷などせず、社会ではちゃんとものわかりよく振る舞う、それだって多様性を認める社会を進めるのではないか、と言う人もいるかもしれない。
あまいね。っていうか、あまかったよ。
うわっつらの寛容さで蓄積される窮屈さは、どす黒い本音を澱のように沈殿させ、そこからぶすぶすと発酵し腐敗臭を放って、反動のようにどうかしているとしか思えない極論を導き出す‥それが今じゃないのか。
なんだかんだ言って、価値観のアップデートなんてされていない、自分の周辺だけが都合のいい世の中になることを願う、それが本音で、その証拠が現在の国政選挙を覆う一部の空気なのじゃないかと絶望しそうになっている。
選挙のたびに実はずっと思って来た、多数決の結果は常に間違っているのかもしれない、と。
極論だ。でも先日、知人からこんな話を聞いた。ある精神障害者施設では当事者たちがイベントの出し物を多数決で選んできたのだが、前回、前々回のイベントに続いて今回も自分の心からの希望が叶わなかった人が、その結果に傷ついて施設に来なくなったのだそうだ。ここにも居場所がなかった、と思ったらしい。部外者ながらやりきれない気持ちになった。
昔から、あるいは病気の発症後に、マイノリティとして生きることを余儀なくされた人が、理解されない自分を抱え、ここなら自分は否定されないかもしれないと期待して通っている施設で、話し合いではなく多数決で有無を言わせず物事が決まっていく、少数派の集まりでもそこに少数派が発生して疎外感を覚え追い詰められていく。なにがダイバーシティだ。
なんだか今の日本、そして今の世界の話みたいだ。選挙にはたぶん行くと思うが、すごくもやもやしている。多数決ってなんだ?多様性を否定することが多数決なのじゃないのか。違うなら誰かわたしにわかるように説明してほしい。
「今の時代、それはアウトかセーフか」で物事を考えるのはやめたい。案外むずかしいので、とりあえず誰かがとんでもない時代錯誤な意見を述べたとしても、「バカじゃないのか」とは言っても、「今はそれ、アウトだよ」とは口にすまい。なぜなら「今」はいくらでも変わるし、普遍的な今なんてどこにもないから。ないのにあるようにして安易に乗っかるから人は間違えるのだ。間違えてもいいとは思う。でも、なんか間違え方がかっこわるい。信用できない。
矯正をはじめ、身を持って知った時代の間違いがいっぱいある。敵はそこここにいるぞ、気をつけろよ自分。自分の頭で考えろ。すぐに考えることがめんどくさくなるから、ここに書いておく。
マジメか。
by月亭つまみ