年齢という「時間の表札」には敏感だけど、「時間の奥行」には鈍感になる現象について。
自分のなかで「これは、比較的新しい『いいほう』の服」と思っているものが、改めて考えると、もう5年も、6年も前に買ったもので「うん?はたして本当に『いいほう』の服なのかな。『古ぼけたほう』の服なのかもしれないぞ」と思うことがあります。
傍から見て「あの人、何年も着ているなあ現象」は、案外、このようにして生まれるんじゃないでしょうか。「これ、何年も着てやる!すり切れるまで着てやる!そしてみんなの記憶に深く深く刻んでやる!」と思い定めた確信犯より、「まだ新しいものを着ているのよね、わたし」と思っているうちに年月を重ねた人が多いと思うな。とくに、ちょっと値の張ったコートなどに起こりがちな現象。
服の場合は、人目にふれることが多いので、まだしもマシですが、家具とか寝具になると、「新しいほう」と思っているものが10年、20年を数えているなんてことはざらで、となると「新しいほう」といつまでも考えている自分の時間が止まっている疑惑が急浮上。
もちろん、洋服も家具も寝具も「新しければよい」というわけではないですけど、だからといって「古ければよい」というわけでもなく、適宜、必要に応じて入れ替えるのは、暖房入れっぱなしの部屋に換気が必要なように、やっぱり必要なんですよね。
人ってどうも自分の「年齢」という「時間の表札」には敏感なわりに、「時間の奥行」には鈍感なようです。「わたし、そんなに老けて見える!?」と落ち込んで訴える人は多いけど、「20年前なんて、もう、昨日のことみたい!」というのは、わりに明るく、あっけらかんと笑い話として語られますよね。わたしもそうですが、その「奥行の見誤り」こそが老化なんじゃないかと思うわけです。
たしかに、わたしにとって20年前は、そんなに昔のことじゃない。ふと、外に目をやると、あのころと同じように子どもたちは公園で遊んでいるし、小学生は通学路を並んで歩いているし、若い男女は楽しげに体を寄せ合っている。違うのは、そこにいるのが「同じ人たちじゃない」ということだけ。
人ってみんな浦島太郎なのかもなあ。
自分のなかの時間は止まっていて、心は実年齢に追いつかず、どこか若い自己イメージのまま。周囲の世界だけが移り変わっていき、玉手箱を開けるまでもなく老人の姿になって立ちすくんでいる、みたいな。
長く生きれば生きるほど過去は「一瞬化」しそうなので、そこらへんをちょっと頭に入れておこうと「古ぼけたほう」のふとんをたたみながら思いました。自分にとって「新しいものは、十分に古い」可能性があるぞと。若者にやたらと厳しい評論家のおじいさん、おばあさん連中にもこっそり教えてあげたいです。
★「ウェブのほぼ女性誌 どうする?Over40」メルマガ★おしゃべり詰め合わせ」を配信中です。
最新テーマは、「この春、49歳で専門学校に入学するの巻&体重増加ストーリー読者編!」
こちらからバックナンバーが読めます。購読無料&解除も簡単ですよー♪
青緑
今日、新しい春靴を買ったので、まだ履けるかもしれないくたびれ気味の5春くらい履いてるのかな、1足捨てようと決心できました。
HD
すみません!変な文が送られてしまいました。
正しいのは次の文です。
はじめまして!
長年カリーナさんのブログとこの「別冊」の愛読者なのですが、コメントするのは初めてです。
緊張します~。
オーストラリア在住のHDと申します。
時間の奥行き、海外に住んでいるとさらにやばいようです。私の日本の時間は、ここオーストラリアに来る
直前の90年代前半あたりからあまり動いていません。日本に帰って友人と話すと少なくとも10年の時差があるのを感じます…。
最近、少しは進歩しなければ、と「2000年ミレニアム以降のものは新しい」と考えていたのですが、ふと気がつけば今年はもう2014年。もうこれも使えません(笑)