嫁姑バトル、勃発!?わたしにも、彼女にも学ぶべきことがある。
9月もあと一週間ですね。9月1日に夫が倒れてから、3週間とちょっと。密度が濃かったような、ぼんやり過ごしたような不思議な時間感覚です。(これまでの経緯は、右サイドバーの9月3日の記事から順にお読みください)
ブログを9年間ほど書きつづけていますが、おそらく一度も「嫁姑問題」は書いていないと思います。離れて暮らしていることに加え、口は悪いけれどサバサバした性格の姑とはうまくつきあってきました。ところが一昨日、姑の発言が受け入れられず、「もう、こんなことを言うなら二度と電話しないでください」と言って、こちらから電話を切ってしまったのです!OH!なんてこと!
85歳の姑のつらさ、苦しさはよくわかっているので、毎日、「今日は(息子は)どうだったか」という電話に辛抱づよく答えてきましたが、夫の病気以外にも問題が勃発し、わたし自身に余裕がなくなっていました。
「毎日お疲れさま」「ありがとう。苦労かけるね」的なワンクッションがまったくなく、ストレートに「息子はどうだ?」と聞いてくる「わたし飛ばし」に少々うんざりしていたのもあるかもしれません。夫にぶつけられない心配や苛立ちを、その母にぶつけて憂さを晴らしたのかもしれません。
別にめずらしいことではないのですが、それでも、まさか姑の存命中に「息子(わたしにとっては夫)の看病(介護)を経験する」ことを、姑もわたしも想定していなかった。つまりすべてが早すぎて不意打ちのため、これからの嫁姑関係を手探りで作っていくしかないのでしょうね。
姑は、わたしという人間を尊重し、ねぎらうことを学ばなければならないし、わたしも、姑に敬老の精神をもちつつ冷静に落ち着いて自己を譲らない術を磨かなければなりません。電話をブチ切りするのでなく。なんなら「ねぎらいなさい。大人なら」と正面切って、毎回諭そうか。わからなくても諭す。
夫の、おそらくは長期にわたるであろう闘病は、家族というチームの力関係やフォーメーションの変更をわたしたちに求めています。ときに衝突し、荒ぶり、悪態もつきながら、少しずつ柔軟に関係を変えていきたい。きっとできるはずだ。そんなことも思っています。常識にあわすのでなく、わたしなりの工夫と独創性を大事にしたいです。
今日は、KEIKOさんの記事が公開されいいます。電車に乗るとき視覚障害のある人にどんな声かけをしていますか。ちょっとした言葉をプラスしてほしいとKEIKOさん。なるほどなあ。ぜひお読みください。
今週もオバフォーは、コツコツと更新しています。時間のあるときに遊びにきてくださいねー。カレー短歌&よもじ猫の投稿もお待ちしています!