希望というものは : 塩こうじとり天
骨折をして入院したことがきっかけで、もう独り暮らしに戻るのは無理だと老健に入所した伯母。
老健入所3日目にして転倒、再度骨折して二度目の入院となってしまった。
その後、2週間程の入院を経てなんとか老健へ戻ったのだが…
先日、老健から連絡があった。
「伯母さまが転倒されて、左肩を骨折されました」
はぁとため息をつきながら、二度目の入院を終えて老健に戻った際に老健のケアマネージャーさんと話したことを思い出した。
「少しでも不自由さがなくなるようにしっかりとリハビリをしたいとは思うのですが…」
少し言いよどんだ後、ケアマネージャーさんはこう続けた。
「リハビリによって中途半端に機能が回復して、ご本人が「動ける。歩ける」と思い込んでしまうことも怖いのです。それによってまた、転倒、骨折があったらと」
実は、私も、そして一緒に伯母の世話をしている従姉妹たちも同じことを考えていた。
二度目の骨折は、車椅子でなければ動けない状態になっているのにもかかわらず、介護士さんにお願いすることなく自分でトイレに行こうとしたため転倒してしまった結果だった。
今回(三度目)の骨折は、やはりお願いすることなく自力でベッドから洗面台へ移動しようとして転倒したせいだった。
伯母は、自分の体について、何ができて何ができないのかを把握できていないのだ。
リハビリで、療法士さんと手すりの助けを借りながらほんのわずか歩けるようになったことが、伯母の認識を「私は歩ける!」というものに書き換えてしまうのではないか。
最初の入院中に入所できる老健を探していた時は、老健ならリハビリを受けることができる、早くリハビリをしてまた歩けるようにしなければ、と考えていた。
年相応の衰えは仕方ない。でも、年相応の機能は取り戻せるはず。そのために出来る事はやらなければ。
会うたびに「良くなったらみんなで食事に行きましょうね」と言う伯母が、杖を突きながらもゆっくりと自分の足で歩けるようになることが私たちの希望だった。
しかし、その希望を叶えるためのリハビリが、場合によってはまた伯母を危険に晒すかもしれないという可能性。
希望というものは、その言葉が持つキラキラしたイメージもあって、どうしても私たちの視線を現実をするりと超えたその先に向けさせる。でも、希望というものは、現実と共にあってこそ実際の輪郭が見えるものなのだなぁと、つくづく思う。
伯母の心身の状態をしっかり見て、伯母が持つさまざまな可能性を考えて、初めて私たちは、伯母は、希望を描くことができるのだろう。
さて、いつものように無理矢理話を持って行くが、日々の料理だって、現実をしっかり把握した上で希望に近づけていくしかない。
年金生活者としがない個人事業主が暮らす我が家では、夕食にA5ランクのステーキを、という希望を描いたところで詮無い事。
現実を認識したうえで美味しいものを食べたいという希望を叶えるのなら、そう、ささみ…。
というわけで、今日の一品は『塩こうじとり天』です。
『塩こうじとり天』
- 鶏ささみに縦に切れ目を入れ(切り離さない)、観音開きにします。そんなにきれいじゃなくても大丈夫。
- 1のささみを横1/3にカットします。
- 2のささみをボウルに入れ、塩こうじを揉み込みます。
ラップをして、冷蔵庫で最低2時間寝かせましょう。 - 冷蔵庫で寝かせた鶏肉に天ぷら衣をつけ、170~180℃の油で揚げたら出来上がり。
塩こうじの味がしみ込んでいるのでそのままでも美味しく食べられますが、天つゆやポン酢を付けても美味。
<ささみの観音開きはこちらでチェック>
決してあきらめるというわけではなく、希望を捨てるというのではなく、現実に則した「目標」が今の私たちの希望といったところか。伯母が、まずは安全に、その上で少しでも楽しく暮らせる状態を作るように。
ミカスでした。
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