3月に思うこと
8年前の3月11日、仕事が休みで家にいた。1階の、台所の食卓に座っていた。
最初に感じたのは、揺れではなくて、なにかがザワ…ッと立ち上がってきて、空気がひねりあげられるような気配、そして、言葉に置き換えるのが難しいような、ゴーーーッというか、ガシャガシャガシャッというか、音だった。
その時点で、私はもう立ち上がって、掃き出し窓のカギに手をかけていた。
「きた…!」という脳をかけめぐるような感覚があり、それは、小さい頃から、いつかちかい将来、ぜったいに関東に大震災がおこる、とくり返し聞かされてきた成果かもしれなかった。
轟音とともに揺れがピークに達するころには、すでに庭に飛び出して、クヌギの木にしがみついて揺られていた。
今思い返してみると、ここでも、じっさいの揺れよりも、音ばかり体がおぼえている。シャーーーーーン!!という金属音のような音がこだまして、揺さぶられた家屋がたてる音がすさまじかった。
裏の高校からは、キャーキャーという生徒たちの叫び声が聞こえて、私もこちらで揺られながら、いつのまにか「こ、これはたいへんだア…」と声に出して言っており、その声がいかにも情けなかったのをおぼえている。
家から飛び出したとき、窓はあけっぱなしてしまった。庭からその開いた窓をとおして、ねこのティーちゃんが部屋の奥のかくれがにすっとんでいくのが見えて、ああ、外に出ないでくれてよかった…と安堵しながら、「しかし、これでまた関係が振り出しに戻ってしまうかもしれない…」と思った。前年の夏にひきとったティーちゃんと、やっと仲良くなってきたところだったのだ。
揺れているあいだ、ごうごうと大風にあおられて、まわり中吹き飛び、髪の毛も逆立つような感覚だった。
そのような中、妙に冷静に、「もしこれが関東大地震ってやつだったら、私ってこれで生き残ったことになるのかな」と思った。
そしてすぐに、「いや、こんな軽くすむわけないか」と思い直し、「どうせくるなら、このさいもうちょっと大きいのが来てしまって、これで関東大地震おわりってことだったらよかったのに」と、どんだけ自分勝手なんだよと思うが、そういうことを考えた。
そのときは、自分がいる以外の場所でどんなことが起きているかなんて、まったく思いも及ばなかった。
揺れがようやくおさまって、やはり家から出てきた近所の人と少し話をしてから、家の中に戻った。オットに電話をしてみるが、当然つながらない。
あれだけの揺れ(じっさいは、私の住んでいるところは震度5くらいだった)と思ったのに、家の中は、こけしが倒れたのと、無理なかたちで積んでいた本が雪崩れた程度で、無事だった。
テレビを付けると、東北地方で未曾有の大地震、と報道が伝えていた。
そして、数十分後、あの日の多くの人々と同じように、信じられない光景を目にすることになった。
広大な平野を、茶色の絨毯のようなものが、左から右へと走ってゆく。おそらくヘリコプターが、上空から撮影している。
その茶色の絨毯が、濁流なのだということが、しばらく理解できなかった。
そして畑脇の道路には、避難する車がひしめきあい、どんどん絨毯にのまれていった。
しばし呆然と見つめたのちに、その状況が意味することを理解した途端、脳が、一切の情報を拒否し、鎧戸をおろしたようになったのがわかった。
今自分が目にしているのがなんなのか、あのたくさんの車が何を意味するのか、それがたった今誰かのところで起きている現実だということを、理解したくなかった。
考えるな、考えちゃいけない、とっさに私の脳はそう思って、ヘリの地上までの距離がもたらす、映像の非現実的さにすがろうとした。でも、それはできない相談だった。
なんか、戦争で爆撃をするときって、こんな感じなのかな、と、ぼうっとなった頭で妙なことも考えた。想像力をすべて閉じてしまえば、人間が見えないギリギリの距離。
そして、私がどうしたかというと、ひきょうにもテレビを消した。
テレビを消すと、ときどき余震はあるにせよ、家の中は平和だった。あんなに揺れたと思っても、東北は、テレビを消したら目の前から消えるくらい遠かった。
当時オットの職場は葛西にあって、その日は帰ってくることができなかった。めちゃくちゃになった社内の写真が、携帯に送られてきた。
夜にイギリスのオットの友人が、スカイプで電話をかけてくれて、彼女としゃべってずいぶん気持ちが落ち着いた。
その日出勤だった同僚は、電車が止まって、歩いて帰宅したそうだ。職場に泊まったものもあった。
職場の図書館は、前年12月に開館したばかりのできたてで、揺れの大きかった臨海地域に位置していたにも関わらず、ほとんど本は落ちなかった。
その後もたらされる被害のニュース、刻々と変わる原発事故の状況、物の消えたスーパー、水への不安、放射線量、停電、職場の短縮開館…こうした非日常の中にあって、東北に親戚や友人がおらず、守るべき子どももいない私は、顔の見える誰かを心配する、ということを免除されていた。
今思い返しても、ずいぶん、もしかしたら、そうでなければいけないような気持ちにもかられて、必要以上にのんきだったと思う。
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先頃、西荻窪のギャラリー(秋に祖父の展示をさせてもらったところです)でひらかれた、「3月に思うこと」という展示に参加した。
あのとき以来それぞれに、いろいろなことを考えて生きてきた、その個人のことについて、何か展示をしてほしい。できれば、私のばあいには、言葉や本に関することを。
そう誘われたときに、「私に何ができるのだろう」という思いがあった。
けれど、店主のサノさんが言ってきたことは、東北のために何ができるか、というようなことではなくて、同じ時代を生きる、個人としての私が思うことを、かたちにしてほしいのだった。
そこで、震災いらい、というよりも、もっと以前からずっと頭の中にあって、震災がそれを裏打ちしたかたちの、私にとってとても重要なある考えに基づいて、本を選書する、ということをしてみようと思った。
そして、このような短い文章を書きました。
「3月に思うこと −12ヶ月の本棚」
大きな災害や戦乱など、未曾有のできごとがあったとき、私たちはともすればそれを、巨大なひとかたまりの悲しみのようにとらえてしまいがちです。
でもそれは、よく見ると、ひとつひとつの個人的な体験の、集積にすぎません。
たとえ似た境遇を、同じ場所から見た光景を、共有することができたように思っても、起きたできごとは、ほんとうにはその人にしか起こらなかった、その人だけのものです。
わたしたちはひとりひとりそれを、自分だけの場所に抱えて、生き続けなければなりません。
そして最後には、みんなたったひとりで死んでいきます。
人はほんとうにはわかりあえない。
でも、ひとりであることと同じくらい確かに、私は、私たちはひとりではない。
その両方が書かれている本というものがあって、私たち人間は、そうした物語をこの身にたくわえ、いくどもいのちを救われてきたと思います。
その多くは、隣に座って、背中を力強くたたいてくれるような本ではありません。
おたがい心もとない筏に乗っていて、ときどき近寄ってきては、食べ物を交換したり、どうだ、なんとかやってるか、と言い合って、また離れていくような、そんな本ばかりです。
2019年3月
12ヶ月の本棚、とあるように、12冊の本を選んで、ひと月に1冊の選書カードに仕立てた。
冊子というかたちにするには、いかにも重いしおこがましいように思ったので、読んだら散逸してもいい気持ちで、カードにした。
この8年間、多くの人が、おこったことのあまりの大きさに、おそらくその大きさを心に刻んでいる人であればあるほど、言葉を体の中に閉じ込めたまま、ここまできてしまったような気がする。
出展者のひとりが、震災後仕事で東北を訪れたとき、だれもが口を揃えたように、「もっと北の人はもっと大変だから」「もっと沿岸の人はもっと大変だから」と言って、どこまでいっても、「ここが大変なところだ!」という場所がなかった、と言っていた。
それは、他者への想像力を持ち合わせる人の、自然な気持ちの発露であり、おくゆかさだった。しかし同時に、こんなに、こんなに大変だった、悲しかった、つらかった、と言えることも、ほんとうに必要だったのだ。私たちの社会は、それを言わせてあげることができなかった。
そして、「当事者」でなければ、何を言おうと嘘っぽく、きれいごとになるだけだから、という私も持っている気持ちもまた、多くの人の口を閉ざしてしまっていなかったか、と思う。
この展示をすることには、とても勇気が必要だった、と店主のサノさんは言っていた。そして、去年ではまだできなかった、来年でもない、きっと今年しかできないと思った、と言うサノさんの気持ちが、私にもわかるような気がする。
8年はあっというまだが、8年あれば、子どもは大人になるし、多くの人がこの世を去ってしまう。8年のあいだに、砂のようにこぼれ落ちていくたくさんの記憶がある。
そして、もうこれだけ経ったんだからいいよね、とでもいうように、きっとこれから、時代だけがどんどん先に行ってしまう。多くの人を後ろに残したまま。
部外者(なんてほんとうはいないのだが)がおずおずと言葉にしようと思い始めたということも、人々が忘れ始めた、「記憶」となり始めたということのひとつの徴なのかもしれない。
今回の展示に出展した人々は、震災や、東北とのかかわりもさまざまで、石巻にご実家があり、家族をなくした経験を持つ人もいれば、私のように、直接のつながりのない者もいる。鳥の目、虫の目、木にガラス、土、何を媒介によのなかを見るかもぜんぜんちがう。それぞれが、個人として向き合ってきたことを持ち寄って、それぞれの景色を見せている。
「どんなに想像しても、ほんとうにはわからないことがある」ということを身に刻みつつ、同時に自分も、また誰もが、なんらかのかたちで当事者であるということを、思い出すことができた展示だったのではないか、そうだったならいいな、と思う。
By はらぷ
※「なんかすごい。」は、毎月第3木曜の更新です。はらぷさんのブログはこちら。
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Jane
今回の記事に限らずずっと思っていたことなのですが、はらぷさんの静かで丁寧で品のある文章が大好きです。上等のお菓子をゆっくり味わったような気分になります。
冒頭の写真きれいですね。私は花のために広々と作られた場所で咲く花より、ごちゃごちゃした人間の日常生活の隙間で咲く花に惹かれます。
はらぷ Post author
Janeさん
こんばんは。
なんと…どっちかというと「こたつで団子」、のような人間に、そのような勿体ないコメントを…。
心や感情ってとても重層的で、かきわけていくともっともっといろんな、相反する気持ちが隠れていたりして、それを言葉にしようとすると、ついつい考えすぎ、書きすぎてしまいます。
でも、よい文章は、一本の線のようでありながら、やはりそのうしろや、行間に多くの書かれない言葉がしまわれているのですよね。
そんなふうに書きたいと思いながら、つねに玉砕してばかりです。
今回、まよいながら書いたこの文章に、Janeさんからそのような言葉をかけていただいて、とてもとても嬉しかったです。
がんばるぞ。
写真の花、浅草寺の裏手の民家の軒先に咲いていたのを撮ったものです。
古い民家の、昔ながらの、むらのある厚手の瓦屋根の緑が、花の色とよく似合っていました。
たくさんの人でごったがえす天下の一大観光地・浅草ですが、観音裏はひっそりとしていて、生活の匂いがして好きな場所です。
お花畑で見る花よりも、「春が来たなあ…」というのを実感しますよね。
Jane
そうですね、「かきわけていく」感じですよ。そこが好きなのかも。
はらぷ Post author
Janeさん
こんなコメントをいただいていたとは…!
お返事遅くなってすみません!!
ああ、もうちびるかもしれない…。