自分が思うより、ずっと近くに、「老女の集い」は待っていた。
こんにちは、カリーナです。
夫は、いわゆる「療養型病院」といわれるところに入院しています。寝たきりの患者が多いので、「医療と介護の区別がない。もう、全部、介護施設にすればいいじゃないか。そして医療保険の負担を減らそう!」ということになっているらしく、早晩、廃止される方向で話は進んでいるようです。
わたしも、ここだけの話ですが、「寝かせっきり」で暗くて、家族もほとんど面会に行かない…というイメージをもっていました。だからこそ、「そうは、すまじ!わたしゃ、行くばい。毎日でも行くけんね!」と鼻息荒く意気込んでいたのです。
その先入観のせいか、最寄り駅から出る病院までのバスに乗り込むと、毎回、ちょっと「あれ?」と思います。そのバスが、中高年女性(主に高年女性)でほぼ満員で、何やら、みなさん、座席の前後や隣に体をひねったりしながら、楽しそうにおしゃべりしているからです。
娘は、その様子を見て「温泉に行くバスみたいやな」と言いましたが、わたしは、「バスツアーだな」と思いました。冷凍みかんやせんべいが似合う感じ。一番前にバスガイドさんが乗っていてもおかしくない感じです。
「〇〇さん、呼吸が苦しなって喉に穴、開けはってんなあ。あんなにおしゃべりが好きな人やったのに、かわいそうやわあ」とか、「〇〇さん、もう、ここに通うことないから、寂しいやろな。ここに来るだけでも、生活にハリがあるからな」…あっけらかんと、互いに大きく深くうなずきながら、語りあっておられます。
新たに誰かが乗り込んで来たら「間に合ってよかったな!」「走ったわあ」「これ、乗らんと暑いから!」「ほんまに5月とは思えへん!」と定番のかけあいが行われ、さらに車内は賑やかに。
そうしてバスは走り出します。
病院の玄関に着くと、みんな、運転手さんに深々とお辞儀をしながら「ありがとうございました!」と、声の大きさだけなら幼稚園児にも負けないくらいにお礼を言ってバスを降り、団体客風に、ぞろぞろとエレベーターに向かいます。元気で従順なところも幼稚園児に似ています。
中高年女性の楽し気な雰囲気が、ふっと変わるのが、各階でエレベーターの扉が開いたときです。誰かが下りるたびに「行ってらっしゃい」と声かけして送りだすのです。
「では」でも「また、後で」でも「さよなら」でもない、「行ってらっしゃい」。ここからがいよいよ「出立」であるような、それぞれがこれから「仕事」に着手するような、その背中を少しだけ押して応援するような「行ってらっしゃい」。その言葉を聞くと、これは、ちょっとした出陣なのだなと思います。
偶然、バスに乗り合った人たちが顔見知りになり、少しずつ交流を深めて、まるで「日帰りバスツアー」のように共有する、つかの間の移動時間。自分の境遇をあっけらかんと受け入れ、不幸をこともなげに超越したかのように振る舞ってみせる、庶民的な達観の技術とその表現。
「行ってらっしゃい」と言われて白いフロアを迷いなく歩きだす、その先に、夫がいるのか、親がいるのか、息子や娘がいるのか。頻繁に通うという行為が、面会を「日常」に変え、「仕事」に変えるのか。
まだ通いはじめて3カ月のわたしには、しっかりとはわからないけれど、先輩たちの明るさとたくましさに、敬意を感じるとともに、もう少し、待ってほしいような、まだ、そっちに行きたくないような、怯えのようなものもあります。「そっち」とは、「本格的な『老いの孤独』に耐性をつけた境地」といいましょうか。
本当は、そんな境地などないのでしょうけどね。そう見えるだけであって。
しかし、自分が思うより、ずっと近くに、「老女の集い」は待っていたのだな、手招きして呼んでいたのだな、という感覚。無邪気に人生ゲームに興じてサイコロを振っていたら、一気に思わぬところまで進んだ感じ。
時は、このまま同じペースで進むように見せかけて、急転直下、新たな現実に叩き込むのだな。諸先輩方のたくましさに学びつつ、心して「時」に対峙したいものです。
今日は、ゆみるさんの「黒ヤギ通信」が公開されています。たんぽぽ、ボーっと見てるだけだったけど、こ、こんな、使い方というか、愛で方というか、再利用の仕方というか・・・あるんですね!ゆみるさん、ほんと、楽しそうだ。
Jane
おおおおお…..これはまた何と言って分からないほど深く、私もそのエレベーターに乗って誰かの背中を見送っているような気がして、ブルっとしました。