嘘も、見栄も、キャラも、思わぬところに自分を連れていく。
何人かでチームを組んで仕事をすることが多いのですが、完成度というのは、ほんのわずかの粘りで大きく変わるものだとしみじみ思います。あと一度だけ調べてみる、あと一度だけ読み直す。あと一度だけ手を入れる…というような、時間にしたら2分かそこらの違い。「徹夜」と「朝飯前」みたいな大げさな違いじゃなくて、ほんのわずかの違いが明らかな質の差を生む、と感じます。
もっと本質的な才能の差なんてものもあるのでしょうが、そうでなくても被膜一枚程度のうすーい差が、いつの間にか幾重にも重なって大きく開くのが仕事ではないでしょうか。特に年をとると、自分のスタイルが固定化されてしまうので、その違いもまた固まっていきます。
被膜一枚程度の差、といえば、こんなこともありました。
数か月前、夫の友だちがお見舞いに来てくれたとき、うちの娘の話になりました。娘は、大学の認定留学には受からず、自費で1年間、アイルランドの語学学校に留学したのですが、その友だちは、「娘さん、アイルランドに留学しているんでしょう。イェイツの研究をしているそうですね」と言うではありませんか。
確かにイェイツを学んでいた時期はありましたが、留学は、ぶっちゃけ誰でも行ける語学留学。しかも、いま、書いている卒論のテーマは、イェイツではない別の詩人です。
夫、見栄を張ったな。
「あああ(笑)イェイツを学んではいましたが、語学留学ですよ」「あ。あいつ、盛ったかな。俺と話すときは、お互いに盛り盛りやから(笑)」「そうですね(笑)盛り対決に流れたのかも(笑)」
とお互いに笑いながら話しました。
悪気のない、だれも陥れない、小さな、小さな嘘。夫が倒れることがなければ、ばれる可能性のない嘘。小さな、小さな、取るに足らない、なんでそんなことをするのかさえ、わからない程度の見栄。
しかし、わたしは、夫が約300万の借金を残して倒れた理由の一端が、この小さな、小さな、取るに足らない見栄と嘘にあると思いました。そして「バカだね」とベッドの夫に苦笑しました。
「どうしてもできない、あと2分間の粘り」が仕事のあらゆる場面に顔を出し、その人のレベルになってしまうように、「どうでもいい、取るに足らない嘘や見栄」も人生のあらゆる場面に増殖するのだと思います。信頼が長年の積み重ねでようやく生まれるように、不信や借金も長年の小さな小さな積み重ねのカタチなのです。
夫は、私の人生を支えてくれた恩人であることに変わりはなく、感謝と愛しさしかありませんが、でも、パッと見てわからない程度の「なんということのない行動」(手抜きや見栄や嘘)が、その人の生き方そのものなのだと、この年になって身に染みています。
人間性は細部に宿る、のです。
しいたけ占いのしいたけさんが、文章にキャラを入れたくないというブログの記事で
「強気キャラ」とか「キラキラ輝くキャラ」って、それはもちろんたまに演じるのは必要だと思うのです。 でも、24時間そういうキャラをやっていると、そこに触れる人達ってどこかゲンナリしてくるっていうか。だって、キャラって「自分が楽しかったり、自分の不安を解消したり、自分を納得させるためにやっている膜」みたいになって堆積しちゃうから、そこに触れた人って、呼吸が少し浅くなる。少し苦しくなる。だってその人がかわいい人って「自分」なんだもん 。
と書いておられましたが、これも「膜」。 たかが被膜一枚、されど被膜一枚です。
手抜きも、嘘も、見栄も、キャラも、人間らしいがゆえの被膜。幾重にも重なると前が見えなくなり、思わぬところに自分を連れていく恐ろしさのあるものです。
週末の「カレー記念日 今週のおかわり」、Cometさんがわたしたち世代にとってはザ・アイドル&ザ・スターのライブに行っていますよ(次回、ちょっとレポートあるらしい!)。ハラミさんのショーワ乙女研究所も、懐かしさが甦る内容です。当時のガム、すぐに味がなくなってましたねえ。そして、いま、ガムはいずこ?