◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第23回 スミマセン、ワタナベトオルさん、ほか。
仕事に必要で本を読むことはあるが、教養のために、と本を読んだことはない。
ずいぶん前、タレントの渡辺徹が「芥川賞と直木賞の受賞作は教養のために読むことにしている」とコメントしていて驚いた。驚いてから、芸能人は趣味や教養そのものを仕事に直結させている人も多いのだろうから驚くには当たらないな、と納得した。納得したが、「っけ!」という気持ちがちょっと残った。
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あらためて考えてみたが、自分の場合、教養のために本を読んだことがない、のではなく、興味がない分野の本を読むことができない、読みたくない、だけのような気がする。教養云々とは別問題。
経済学とゲームと21世紀のJポップの本しかないから、それを読んでなさい、しかも横になって読んでヨシ!となったら(きわめて特異な状況)、間違いなく5分後には熟睡している。
読む本をほぼ自分の好みでしか選んでこなかった自分は、読書という行為そのものを自分の好みの方向のポジションに置いておきたいだけなのだろう。渡辺徹(何度も名前を出して申し訳ない)に「っけ!」となったのも、教養のために本を読むと公言しているからではなく、そのときの彼の物言いに、芥川賞と直木賞の受賞作こそ数多の小説の中でもっとも教養に値する良質の文学である、という大前提を感じて、それにツユほどの疑いや迷いがないように見えたことに反発したってことだったのかもしれない。
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ことほどさように、日本の小説における芥川賞、直木賞、最近では本屋大賞、のブランド力は揺るぎない。受賞作には「これを読んでいれば間違いない」という太鼓判を押されるわけで、発表されるやいなや(時にはそれ以前から)その本は書店には平積みされ、煽りのPOPが立ち、図書館では予約が殺到する。
お墨付きや太鼓判が押された小説は、そりゃあ安心だ。なんとならば私も読むし、その中には心から面白いと思った本もある。でも、おもいきって言ってしまうと、お墨付きの小説ばかり読んでいる人はいろいろと余白が少なそう。…今、一瞬、渡辺徹ゴメンと思ったが、氏は「芥川賞と直木賞受賞作は読む」と言っているだけであって、「それしか読まない」とは言ってないのだから、謝るのは「それしか読んでないんだろう」と思ったってことで、失礼でした。
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青臭いことを承知で書くと、小説や映画や音楽…に限らず、ファッションでも景色でも、自分で好きなものを決めていいというのが大人のなによりの醍醐味だと思う。もちろんその中には、他者の評価や流行り、特定の誰かの影響があっていいし、無意識にそういうものに引っ張られての「自分の意見」だったりするのは暗黙の了解だ。でも、それでも「自分でこれを選んだ」という自覚というか思い込みというか勘違いこそが、たとえば読書、もっと大きく言えば人生を進めていく燃料のひとつになるように思う。
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若くて、周囲の多くの人が、才能や人柄を褒め称え、将来を嘱望されていた俳優さんが自らの命を絶ってしまった。彼の行為の本当の理由は誰にもわからないし、もしかしたら本人すら説明できないことかもしれない。
高校時代にテニス部にちょっとだけ在籍していたときに、ダブルスを組んでいたぴーやんが20代後半のときに自ら死を選んだ。結婚して子どもが生まれたばかりで、知らせを受けたとき、「な、なんで!?」としか思わなかった。お茶目で繊細でマジメな人だった。本人はうっかり応募しただけで、しかも応募者が少なかったのだと謙遜していたけれど、地元のプチミスコンみたいな催しでファイナリストになったこともあった。
死を軽く考えるつもりは微塵もないが、人って案外、「うっかり」死んでしまうこともあるのじゃないか、その「うっかりの穴」は思いのほか、そこここにあって、今、自分が生きているのは奇跡に近いのではないか、と思ったりする。
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うっかりの穴に落ちないコツは自分で選んだ人生を送ることですよ、などと短絡的なことを言うつもりはない。そんなに単純なことなら誰も苦労はしない。ただ、ままならない人生や日々…要するに真っ暗闇な気分でいるときに、どこかの誰かの頭上にある抜けるような青空を思うとキツいが、隙間からでも垣間見えるわずかな灯りを発見することを想像するのは、それよりずっとマシなのではないかと思ったりする。
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ここで私が書いていることなんてどれも机上の空論かもしれない。自分に限っていえば「人生すべてなりゆき大明神様のお導きのままに」と思っているフシもある。でも、絶対的正解などどこにもないと思うばかりの昨今は、「自分でこれを選んだ」という自覚や思い込みや勘違いも大事だと思うのだ。矛盾しているけれど、なりゆきとこれは両立する…と思う。
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仕事、子育て、健康、介護、自身の老後、新型コロナ…世の中は不穏や不安のタネまみれだ。どうしていいかわからない局面に立たされることもしばしばだが、なりゆき大明神様と自分の意思のダブルスタンダード(←この言葉をよく使うよな、私)でなんとかやっていきたい。
一気書きしましたが、読み返すほどに青臭くて浅い文章です。でもこのままアップします。スミマセン。
by月亭つまみ
kokomo
つまみさん、こんにちは。
ワタナベさんの発言を読んで、私の両親の「認知症にならないように友達を作る!」という発言に「っけ!」となった時の気持ちになりました。あ、ちょっと違いますか...
お亡くなりになった若き俳優さんの死ですが、ダウンタウンの松本さんも「ふと魔がさすときがあるんかな」と言っていました。自ら死を選んだ親族の葬式で「なぜ前日でも、翌日でもなく、その日だったのだろう。」と答えの出ない問いを頭の中で繰り返したことを思い出します。大ファンという訳ではなかったのに、若くて魅力的で才能もある件の俳優さんの死が日が経つにつれて重く重くのしかかってきて混乱していました。つまみさんの「ダブルスタンダード」で気持ちに折り合いが付けられそうな気がします。雑然としたままの文章、すみません。
つまみ Post author
kokomoさん、こんばんは。
コメント、ありがとうございます。
ご両親の「友達を作る」発言、失礼ながらクスッとしてしまいました。
ワタナベトオル氏もご両親も、そこになんの疑いもないコメントなんですよねえ。
かの俳優さんの死は、私も、ファンという感じでは全くなかったのに、重くつらい気持ちになりました。
どうしてそういう気持ちになるのだろう、と思って書いたことでしたが、生と死が地続きであることを思い知らされる災害や事件や流行り病のせいもあるのかもしれないです。
自ら選ぶかどうかはわからずとも、死がどんどん身近に感じられるのは、単に加齢のせいばかりではないように思ってしまったり。
だからというって、常に鬱々と暮らしているわけではなく、亡くなった俳優さんもきっと、笑ったり、スッキリしたり、高揚したりする瞬間もあっただろうに、と。
どんな気持ちになっても、戻ってこれる、戻れなくても少し方向転換できるようなモノを見つけられるのなら、ダブルスタンダードでもトリプルスタンダードでも見つけたい、でも「戻りたい」と少しでも思えるうちはまだ余力があるってことなのかも、などと堂々巡りな今日この頃です。
私の方が、ずっとずっと雑然とした文章です(^^;;