「情愛のキャパ」は、自分のもつ「資源のキャパ」より大きいから、要注意。
こんにちは!カリーナです。
一昨日の土曜日は、カイゴデトックスのプロジェクトが行っている在宅デトックスの日でした。そのなかで「情愛のキャパは、自分のもつ資源のキャパより往々にして大きい」という話をしました。
ここでいう「情愛」は、愛する人たち(主に家族)への思いのこと。その思いから、「あれもしてあげたい。これもしてあげたい」と願い、そうしている様子を思い描き、そうしなければならないと自分に命じ、「そうだ。できる」と感じる、その量のこと。愛は深く、大きいのです。
「自分のもつ資源のキャパ」というのは、もっと具体的です。体力、経済力、住居の広さや状況、時間的ゆとり、精神的ゆとりや強さ、協力者の有無(家族の数と協力の有無)などなど…。こういったもののキャパは、情愛が示す理想図のイメージと、そのとき「できる」と感じさせたキャパに比べるとはるかに小さいことが多い。
情けない話ですが、わたしなど犬の散歩をして仕事に行き、帰ってきてまた散歩に行って洗濯物をとりこみ、ごはんを食べたら、もう床の上で「行き倒れ」ています。体力残量ゼロ。回復までしばし寝るしかない状態です。
体力ひとつとってもそうですが、ここに経済力、住居の状況、時間的ゆとり、精神力、協力者の有無などが絡みあうと、なんともいえない「圧倒的な疲労感」となって襲い掛かります。
子育てと家事と仕事とか、介護と家事と孫の世話とか、女性が往々にして一切合切、引き受けがちな「情愛」を土台とした労働は、情愛ベースで解決することではなく、その当事者の体力や経済力、精神力などなど、あらゆる「資源」を消費・燃焼して可能になることなので、自分がどれだけの資源をもっているのか、冷静・冷徹に考える必要があります。
愛あるケアは、現実的な「資源」の計算の上に成り立つ。介護がもたらす不幸を防ぐためにも、忘れてはならないと思います。
在宅デトックスは、来月も開催されます。来月はお昼の予定。ミカスさんの「どんな発言も否定しない、おだやかで明るい進行」が心地よく、わたしは、好き勝手に思いついたことを話しています。介護以外の話もいろいろ出て楽しいので、気楽にご参加ください。
ゆみるさんの「黒ヤギ通信」更新されています。1円切手から導き出される思い出。後半の文章、どこにも悲しいとも辛いとも書かれていないのに、ありありと描写が浮かびます。すばらしい表現。