人はみな生きている限り「現在」を生きなければならない、という当たり前だけど重たい事実。
こんにちは、カリーナです。
うちの近くの駅には、寄贈された本が並ぶ図書コーナーがあり、誰でも手続き不要で借りることができます。返すときも、黙って棚に戻しておけばオーケー。
そこに、2016年に大ベストセラーになった佐藤愛子氏の「90歳、何がめでたい」を見つけました。さっそく読んだら、面白かったー。短くてカラリとして、自分にも人にも粘着しない小気味いい文章。
その中の「来るか?日本人総アホ時代」という文章に、水道のことが書いてあるんです。佐藤さんは、大正12年生まれ(わたしの亡母と同い年)。最初は井戸です。それも縄の先につけた桶で汲む「つるべ井戸」。これ地下水が深いところにあると、すごく大変だったらしいです。(ここに書いてありました)
それからポンプをギーコギーコと押すと、ザアザアと流れる仕組みに変わり、「楽になったねえ。ありがたいねえと女たちは喜んだ」時代へ。その後、水道が設置されたけれど、「はじめは2階では使えなかった」(!)
生まれた地域によって「わたしもずっと井戸でしたよ」という人はいるでしょうが、今は、まずどこへ行っても蛇口をひねれば水。この感動的な便利さ、案外、最近手に入ったものだったんですねえ。母がそんな時代を生きてきたということ、あまり考えなかったなあ。
佐藤さんの「水道」にあたるものが、私たちにとっては「電話」ということになるでしょうか。ジーコジーコと回るダイヤル式の黒電話から、プッシュフォン(カバーをかけたりした)へ、そこに留守番機能が付き(メッセージを入れたり、音楽を入れたりした)、ショルダーバッグのような携帯電話が登場し、ガラケーになり、スマホになり…。
すんごい変化。すんごい進歩。
佐藤さんは、マイナンバーカードがスマホで利用できるようになるという記事を読んで「何をいっているんだか、さっぱりわからない。だいたい、『スマホ』というものがわからない。(中略)(タクシーの運転手さんとの会話で)「スマホって何ですか?そういうものは持ったこともみたこともないので、そういわれてもねえ…わからないわ」
そりゃ、そうだ。そうでしょうとも。
何が言いたいかというと、同じ時間、同じ街を、こんなにも違う経験と記憶を脳内に抱えた人たちが一緒に歩いている。言葉を交わしている。それが、この世界なんだと、この本を読んで改めて気づいたということです。
佐藤さんとわたしたち、わたしたちと今の10代の人たち。その経験と記憶はびっくりするほど異なる。思っている以上に異なる。
佐藤さんやわたしの母親が「水道」といったときに自然に浮かべるイメージは、つるべやポンプの重たさや外気の暑さ、冷たさかもしれない。雨に濡れながら見つめた、井戸の縁かもしれない。最初に台所の蛇口をひねったときの感動かもしれない。
同じく「電話」といわれたときに、わたしのなかにあるイメージの基本は、玄関から居間へと場所を移した固定電話であり、「電話よおー」と呼ぶ親の声だったりするのです。
人はみな、生きている限り、「現在」を生きないといけません。あたりまえですが。この「現在」という時制は、「現実」という大きなパワーをもつため、すべての人に有無を言わさぬ適応や順応を求める。少しでも適応できないと「遅れている」ということになって、あれもこれもとできないことが増える。「過去」や「未来」に比べて、「現在」は圧倒的強者なのです。
昨日、学生時代を過ごした京都を歩きましたが、何度行っても四条河原町あたりの風景に慣れることができません。若い頃とは何もかも変わっているのですが、どこがどう変わっているのかはっきりとはわからない、でも大きく変わっている。私の心持ちも変わっている。思い出と二重写しで歩くのですが、そのおさまりどころがいまいち、よくわかりません。「現在」にピントが合わなくて、ちょっともどかしい気がします。
月並みなオチで佐藤さんに恥ずかしいけれど、年をとるって、こういう感覚を頻繁に感じることなんですかねー。
オバフォーは今週もコツコツと更新します。時間のあるときに遊びに来てください。待ってまーす。